第二 「量」の字の事
御義口伝に云わく、「量」の字を本門に配当することは、「量」とは懸り摂むる義なり(一切のものを包含するという意味があるからである)。本門の心は無作の三身を説き顕すことにある。この無作の三身とは、仏の上ばかりにしてこれを云わず。
森羅万法(一切の生命活動)が自受用身の自体顕照と説かれるが故に、迹門において不変真如の理円をそのまま改めないで、各々の当体がそのまま無作三身と顕現していくのである。これが本門事の一念三千の元意なのである。
これ即ち桜梅桃李の己々の当体を改めずして、そのままの姿で無作の三身と開見していくことであり、これこそ一切を摂することであり、即ち「量」の義である。