第三 「義」の字の事
御義口伝に云わく、「義」とは、観心である。そのわけは、文は教相、義は観心であるからである。所説の文字を心地に沙汰する(我が生命に観じていくこと)を、「義」と云うのである。【また、文底の意を解して、それを実際の生活の上に、顕現していくことを義というのである。】
なかんずく、「無量義」は、一法より無量の義を出生すと説いている。
能生は「義」(すなわち、あらゆるものを生み出していくところのものは一法であり、これは南無妙法蓮華経のことである。所生(生み出されるもの)は「無量」である。
これは無量義経の能生・所生のことである。法華経と無量義経とを相対する能・所について述べたものではない。
「無相不相、名為実相(相無く相ならざるを、名づけて実相となす)」の理より万法を開出すとの意である。源が実相であるがゆえに、観心と云うのである。
かくのごとく「無量義」の三字を、迹門・本門・観心に配当することは、法華の「妙法」等の題号と、今の「無量義」の題号と、一体不二の序・正であると、相承の心を相伝せんがためである。
御義口伝講義726頁前後、大事な講義があります。
10行目
その一つに経文の一節にせよ、論釈の一節にせよ、ただその表面の解釈のみにとどまっていたならば、それは教相の辺にとどまるのである。その一節、一句の奥底に何を説かんとしているのか、その元意を会得して、わが心に、わが生活に具現してこそ、正しく文を読んだことになるのである。
(まとめるのが大変なので、割愛します。)