第六 「無量義処」の事
御義口伝に云わく、「無量義処」とは、【別の角度から論ずるならば】一念三千のことである。【説法品第二に「衆生の諸の根性欲に入る。性欲(しょうよく)無量なるがゆえに説法無量なり、説法無量なるがゆえに義もまた無量なり」とあるように】(仏は)十界(の衆生)おのおのに無量の説法をし、無量の義を説いた。【しかして、法華経方便品に、この無量の義の当体が、】そのまま実相の一理より外(ほか)にはないということを、「諸法実相」と説かれたのである。
それを明かさんがための序であるが故に、「諸法実相」すなわち一念三千の序として、この経では「無量義処」といったのである。
【無量義処を一念三千に配すると、】「処」は一念、「無量義」は三千である。我ら衆生、朝夕吐くところの言語も、依正二法共に無量の義である。これを(=しかもそれが一念より出たものであると断ずるのを、)妙法蓮華経というのである。したがって、無量義経は法華経のための序分であり、開経なのである。
<感想>
難しく考えるとわからんようになりそうなので、さらっと読んで「わかった」って思って納得したほうがよさそうです。ここは講義録の通解が非常に言葉多く足してくれてるので、私もそのように書きました。
わざわざ【別の角度から論ずるならば】とあるのは、第五のときも、無量義処について書いたからです。