五百品
日本国の一切衆生 題目・御本尊
貧人 見 此珠
心法 色法 煩悩即菩提・生死即涅槃
其心大歓喜
信心ノカタチ
(貧なる人この球を見て、その心大いに歓喜す)
この文は、始めて我が心本来の仏なりと知るを、即ち「大歓喜」と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。
<通解>
この経文の右(上)に註を附されていわく、
「貧なる人」とは日蓮大聖人の仏法を信じようとせず、誹謗しているところの日本国の一切衆生のことである。また「此の球」とは南無妙法蓮華経の題目であり、御本尊のことである。
「其の心大いに歓喜す」の「其の心」とは観念的な心ではなく、色心の二法をそなえた心であり、生命と訳すべきである。心法、色法ともに歓喜するとの意である。
また、「歓喜」とは煩悩即菩提、生死即涅槃であり、これこそ真の歓喜である。この文全体について説かれていわく、御本尊を受持することによって、初めて自分自身が妙法の当体であることを悟っていくことができる、これを大歓喜というのである。すなわち南無妙法蓮華経と唱えていくことは自分自身の即身成仏を実現していくのであるから、歓喜の中の大歓喜なのである。
<講義>
信心が透徹したときに自分自身が本来、妙法の当体であることを事実の上に覚知することができる。これこそが真実の歓喜であるといわれている。
だから、題目をいくらあげていても歓喜がわかない、というのはまだまだ、信心が透徹していないといえるのだ。
(天上に生まれて五衰を受くといわれている)天上界の喜びに対して、泉水のように生命にこんこんと湧いてきて、尽きることのない喜びが、ここでいう大歓喜になる。生命の奥底からの歓喜で五体は躍動する。これこそ歓喜の中の大歓喜であり、註に「信心のカタチ」と述べられているように、一切の行動や表情、心の動きにすべて現れてくる「歓喜の姿」がその証ではないだろうか。