涌出品
昼夜常精進 為求仏道故
この文は、一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行なり。
<通解>
湧出品第十五に「昼夜に常に精進す、仏道を求めんがための故なり」とある。これは昼となく夜となく、昼夜を分かたず信心修行に精進しているのは、仏道すなわち最高の幸福境涯を得んがためであるとの文であり、これについての御義口伝である。
左に読み方を変えて、一歩深く論ぜられていわく、「仏道を求めんがための故なり」は「仏道を求めたること、もとよりなり」と読むことが出来る。これは昼夜に常に精進していること自体、すでに仏道を成就していることであると、因果俱時に読んだ立場である。
次に経文全体の御義口伝にわく、この文は、わが一念に億劫にもわたる辛労を尽くして自行化他にわたる仏道修行に励んでいくならば、本来自分の身に持っている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくるのである。いわゆる南無妙法蓮華経と唱えていくことは精進行である。
<講義より>
世間にも精進の姿は色々ある。われらは広宣流布、世界平和、個人においては最高の幸福境涯のため、日夜精進しているのである。
仏法でいう精進とは、精は無雑の義、進は無間の義である。無雑とは、八万法蔵の奥底、要中たる南無妙法蓮華経を余文を雑(まじ)えず唱題していくことである。無間とは間断なくとの意で、絶えず勤行唱題、折伏行に励み、常に前進していくことである。したがって、絶えざる前進がなければ精進とはいえない。たとえ信心していても、妙法以外のことが、その人の根底となり、形式に流されておれば、精進ではない。
ここに日蓮大聖人はわれらに一念に億劫の辛労を尽くすべきことを示されているのである。
一念に億劫の辛労を尽くされたのは、いうまでもなく日蓮大聖人である。我らの辛労は億劫とはいえない。しかし、広宣流布のため、自己の全生命力、全智慧、全能力を傾けて戦うことが、この文を身読したことに通ずるのである。大聖人も石虎将軍等の例を引かれて、一念を込めて事に臨むならば、どれほど大きな力を生み出すことができるかを説かれている。
我らの一念は信心の一念であり、この一念があれば、いかなることも成就していけるのである。しかも、もったいなくも「無作の三身念念に起こる」と説かれているではないか。この御文を確信するとき、何事か恐れることがあろう。ただ、全生命をそこに注ぎ込むことだ。全力をあげて戦うことだ。それが即仏智とあらわれ、仏の振舞いと変わっていくのだ。