一、涌出品
御義口伝に云わく、この品は迹門流通の後、本門開顕の序分なり。故に、まず本地の無作の三身を顕さんがために、釈尊の具うるところの菩薩なるが故に、本地の本化の弟子を召すなり。これまた妙法の従地なれば、十界の大地なり。妙法の涌出なれば、十界皆涌出するなり。十界は妙法の菩薩なれば、皆、饒益有情界の慈悲深重の大士なり。蓮華の大地なれば、十界の大地も十界の涌出の菩薩も本来清浄なり。
詮ずるところ、悟道に約する時は、「従地」とは、十界の衆生の大種の生ずる所なり。「涌出」とは、十界の衆生の出胎の相なり。菩薩とは、十界の衆生の本有の慈悲なり。この菩薩に本法の妙法蓮華経を付嘱せんがために従地涌出するなり。
日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、従地涌出の菩薩なり。外に求むることなかれ云々。
<通解>この湧出品から本門であり、寿量品第十六の広開近顕遠に対して、その序文として地涌の菩薩が出現し、略開近顕遠が説かれている。地涌の菩薩は、久遠の釈尊の本眷属であり、永遠の生命を明かすにあたって、その永遠の過去より教化した弟子を召し出したのである。
御義口伝には、次のように仰せである。この湧出品第十五は迹門の流通分のあとに説かれたものであり、本門の永遠の生命を説き明かすための序分である。したがって、まず、釈尊の本地である無作の三身をあらわすために、釈尊の己心の菩薩である本化の弟子を召し出したのである。
この本化の菩薩達が大地より湧出したという大地とは、妙法の大地であるから、十界を大地とするのである。また妙法の湧出であるから、十界が皆、湧出するのである。その湧出した十界の衆生は、本質は妙法受持の菩薩であるから、皆、有情界を饒益(にょうやく)する慈悲の深重なる大菩薩である。また、本化の菩薩がそこより湧出した大地とは、蓮華の大地であるから、皆、その十界の大地も、十界より湧出した菩薩も、本来、清浄無垢(むく)である。
所詮、南無妙法蓮華経の大法を悟ってみたときは、従地湧出の大地とは、十界の衆生の仏性の根本の種子が生ずる所である。また、湧出とは、十界の衆生が母胎より出ずる姿である。菩薩とは、十界の衆生が本来有している慈悲をいう。この十界衆生の生命にそなわっている慈悲の心に妙法蓮華経を付属するために、従地湧出の儀式が行われたのである。今、末法において、日蓮大聖人およびその一門が三大秘法の南無妙法蓮華経を唱えるのは、この従地湧出の菩薩である。我々をおいてほかに地涌の菩薩を求めてはならない。