御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 分別品 全799頁 新1114頁

   一、分別品  (御義口伝講義1021頁)
  御義口伝に云わく、この品は上の品の時、本地の無作の三身如来の寿を聞くが故に、今品にして上の無作の三身を信解するなり。その功徳を分別するなり。功徳とは、十界己々の当体の三毒の煩悩を、この品の時、そのまま妙法の功徳なりと分別するなり。その功徳とは、本有の南無妙法蓮華経これなり云々。

<通解>

先の湧出品第十五と寿量品第十六とで、略広に開近顕遠し、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、この品は、その功徳を浅深不同を分別することを説いたので分別功徳品という。全体として二段に分かれており、前半は本門の正宗分に属する。後半から流通分に入り、次の随喜品第十八の終わりまでにかけて、初品の因の功徳を明かす。

御義口伝には、次のように仰せである。上の品即ち寿量品第十六において、本地無作三身如来の永遠の生命を開いた菩薩大衆は、この品においてそれを信解する。そして、その信解がここに分別されているのである。即ち無作の三身を信解したときには、十界のおのおのの衆生が本然的にもっている貪・瞋・癡三毒より起こる煩悩は、そのまま妙法の功徳であり、御本尊の利益であると分別するのである。その功徳とは、生命にそなわっている南無妙法蓮華経の仏界の生命が湧現し、我が身がもともと南無妙法蓮華経の当体であったと悟ることがそれである。

<講義>

御本尊は一つであり、信心も不変である。だが、その信心によって、現実の生活に現れる功徳の姿は、一人一人の生活に応じて、千差万別である。これを分別功徳というのである。

すなわち、御本尊を信解したならば、その人はすでに妙法の当体であり、無作三身の仏である。だが、だからといって、皆が、ある定まった形の存在になってしまうわけではない。怒りっぽい人は怒りっぽいままで、しかも、人生が社会に価値創造し、誰からも好かれ、尊敬されるようになる。

学者肌の人は学者肌のままで、それであって、人情の機微に通じ、人々とも親しみやすく、偉大な人生の指導者となることができる。共通して言えることは、生命力豊かに、智慧は限りなく、あらゆる人生の荒波を悠々と乗りきっていく人であり、生きていること自体が楽しいという境涯になるのである。