一、厳王品
御義口伝に云わく、この品は、二子の教化によって、父の妙荘厳王は邪見を翻し、正見に住して、沙羅樹王仏と成るなり。
「沙羅樹王」とは梵語なり、ここには「熾盛光(しじょうこう)」と云う。一切衆生は皆これ熾盛光より出生したる一切衆生なり。この故に、十界の衆生の父なり。法華の心にては自受用智なり。「忽然火起、焚焼舎宅(忽然に火は起こって、舎宅を焚焼す)」とは、これなり。煩悩の一念の火起こって迷悟不二の舎宅を焼くなり。邪見とはこれなり。この邪見を「邪見即ち正」と照らしたるは、南無妙法蓮華経の智慧なり。いわゆる六凡は父なり、四聖は子なり。四聖は正見、六凡は邪見。故に、「六道の衆生は皆これ我が父母なり」とは、これなり云々。
<通解>
この品は浄徳夫人と浄蔵・浄眼の三人が力を合わせて、父の妙荘厳王に帰依せしめることを説いている。この故に化他流通中、人をもって法を護るを明かした品とする。
御義口伝には、次のように仰せである。この品は、浄蔵・浄眼の二子の教化によって、父の妙荘厳王が邪見を翻し、正法を信ずることによって、沙羅樹王仏となったことを明かしている。沙羅樹王とは梵語であり、訳すると熾盛光という意味である。一切の衆生、生命体は熾盛光、すなわち宇宙に燃え盛る太陽の如きエネルギーから発生した。したがって、沙羅樹王とは十界三千の一切生命の父を意味する。今、これを法華経の生命論から論ずると、熾盛光とは自受用智、自受用身の智慧の光すなわち南無妙法蓮華経である。譬喩品第三の三車火宅火宅の譬えの中において「忽然に火起こって舎宅を梵焼す」とあるのがこれで、煩悩の一念の火が起こって、迷悟不二の舎宅を焼くのである。すなわち、煩悩のために正しい物の見方を失ってしまう、これを邪見というのである。この邪見を、煩悩即菩提と開くことによって、邪見即正見と照らしていくのが、南無妙法蓮華経の智慧、すなわち御本尊への信心の力である。以心代慧で、信ずる心が智慧となるのである。
十界の中において、いわゆる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道は、父すなわち邪見に迷う妙荘厳王にあたる。声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖は正法を知っている子の浄蔵・浄眼である。これはまた、六凡の煩悩があって初めて、仏・四聖が生ずるということでもある。六道の衆生は、皆わが父母であると仏が説いたのは、この意味である。
<講義>
一家和楽の信心を築くことが大事である。全世界に流布すべき大宗教であるならば、まず、一家庭を動かす力があり、納得せしめる道理があるのは当然である。その人について性格も、癖も、一瞬一瞬の微妙な心の動きも、ありのままに知っているのは家族である。信心によって、どれだけ成長し、人間革命したかは家族が最もよく知っていることである。ゆえに知らず知らずのうちに、仏法の偉大さを身に感じ、必ずや一家そろって信心に励むようになっていくのである。浄蔵・浄眼の二子が様々な神力を現じて、父王を目覚めさせたというのも、現在では自ら功徳の実証を示し、自分自身が人間革命していくことが、家族を信心させる最直道であることを示したものといえる。
なお、妙荘厳王の場合、浄蔵・浄眼の二子および浄徳夫人が先に信心し、父の妙荘厳王が最も遅れたわけであるが、創価学会員の同志の幾多の事例にしても、多くの場合この通りの順序になっていることは、興味深いことである。