御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝は今日で最後です! 勧発品 全802頁 新1118頁

   一、勧発品
  御義口伝に云わく、この品は再演法華なり。本迹二門の極理、この品に至極するなり。慈覚大師云わく「十界の衆生は発心修行す」と釈したもうは、この品のことなり。詮ずるところ、この品と序品とは生死の二法なり。序品は我ら衆生の生なり。この品は一切衆生の死なり。生死一念

と転りたり。
  生の故に始めに「如是我聞(かくのごときを我聞きき)」と置く。「如」は生の義なり。死の故に終わりに「作礼而去(礼を作して去りにき)」と結したり。「去」は死の義なり。「作礼」の言は、生死の間に成しと成すところの我ら衆生の所作なり。この所作とは、妙法蓮華経なり。「礼」とは不乱の義なり。法界妙法なれば、不乱なり。天台大師云わく「体の字は礼と訓ず。礼は法なり。各々その親を親とし、各々その子を子とす。出世の法体も、またかくのごとし」。「体」とは、妙法蓮華経のことなり。まず体玄義を釈するなり。「体」とは十界の異体なり。これを法華経の体とせり。これらを「作礼而去」とは説かれたり。法界の千草万木、地獄・餓鬼等、いずれの界も諸法実相の「作礼」にあらずということなし。これ即ち「普賢菩薩」なり。「普」とは法界、「賢」とは「作礼而去」なり。これ即ち妙法蓮華経なり。
  ここをもって品々の初めにも五字を題し、終わりにも五字をもって結し、前後・中間、南無妙法蓮華経の七字なり。

 末法弘通の要法、ただこの一段にのみこれ有るなり。これらの心を失って要法に結ばずんば、末法弘通の法には足らざるものなり。あまつさえ日蓮が本意を失うべし。日蓮が弟子檀那、別の才覚無益なり。
  妙楽、釈して云わく「子、父の法を弘む。世界の益有り」。「子」とは地涌の菩薩なり、「父」とは釈尊なり、「世界」とは日本国なり、「益」とは成仏なり、「法」とは南無妙法蓮華経なり。今またもってかくのごとし。「父」とは日蓮なり、「子」とは日蓮が弟子檀那なり、「世界」とは日本国なり、「益」とは受持し成仏するなり、「法」とは上行所伝の題目なり。

 御義口伝巻下
   弘安元年戊寅正月一日    執筆 日興

  御義口伝 終

 

<講義>

この勧発品第二十八(普賢品ともいう)は、神力品第二十一以下の付属流通中の自他流通を勧めるのである。普賢菩薩が、東方宝威徳上王仏の国にいて、この娑婆世界で釈尊法華経を説くのを聞いて、来至し、釈尊に、仏滅後この法華経をいかに持つべきかと問う。それに対し、釈尊は、一に諸仏に護念せられ、二に諸々の徳本植え、三に正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、四に一切衆生を救う心を起こすべきである、と四法成就を説いて、法華経を再演したことをあらわしている。御義口伝には、次のように仰せである。この品は法華経を再演している。本迹二門の極理は、この勧発品第二十八に極まっている。慈覚大師が「十界の衆生、すなわちあらゆる衆生が発心し、修行する」と釈されたのは、この勧発品第二十八のことである。

所詮、この勧発品第二十八と最初の序品第一とは、生死の二法を表わしている。序品第一は、われら一切衆生の生、勧発品は死であり、この生死が一念に具わることを妙法蓮華経というのである。さらに各品についてみると、初めの題号は生、末尾の方は死で、同じく各品もそれ自体で生死一念の哲理を表わしている。

このように、この法華経は生死生死とめぐっていくのである。生のゆえに、冒頭に「如是我聞」とある。如とは如々として来るという仏の生命を明かし、生の義を表す。死の故に、最後に「作礼而去(さらいにこ)」で結ばれている。去(こ)とは去(さ)るであるから死の義を表す。作礼というのは、我ら衆生が生死のあいだに成(な)す、あらゆる生命の所作である。この所作とは何かといえば、妙法蓮華経である。礼とは「不乱」すなわちリズムにかない、調和していくことである。宇宙即妙法であるから、そこに厳然たる調和が保たれているのである。

また、天台大師は次のように釈している。「体の字は礼と読む。礼とは法にかなうということである。子は親を親として尊び、親は子を子として慈しむところに礼がある。仏法の道理もまた同じことである」と。体とは妙法蓮華経、即ち三大秘法の御本尊のことである。これゆえに天台大師は名体宗用教の五玄義を釈するにあたって、まず体玄義を釈したのである。また、体とは地獄より仏界にいたる十界のそれぞれ異なるも、究極するところはすべて妙法蓮華経に帰着する。この妙法蓮華経こそ法華経の本体なのである。これらの意義を「礼をなして去りにき」と説かれたのである。全宇宙の森羅万象も、地獄、餓鬼等の十界すべてが諸法実相の作礼すなわち妙法に帰依し、妙法を証明する振舞となっている。これが即ち普賢菩薩である。普賢の普とは法界即宇宙をいい、賢とは作礼而去すなわち宇宙森羅万象の振舞いを意味する。これが妙法蓮華経である。

これゆえに二十八品各品の初めに妙法蓮華経と題号を置き、終わりにも妙法蓮華経の五字をもって結ばれている。このように、前後も、中間も、南無妙法蓮華経の七字なのである。末法に弘通する要法たる南無妙法蓮華経はこの一段に含まれている。この心を失って南無妙法蓮華経を根幹としなかったならば、末法弘通の法とはなりえないばかりか、日蓮大聖人の御本意にかなわないのである。日蓮大聖人の弟子檀那においては、これより他の才覚は無益である。

妙楽大師は「子が父の法を弘めるならば、世界の利益がある」といっている。子とは地涌の菩薩であり、父とは釈尊である。世界とは日本国、益とは成仏絶対的幸福境涯の確立、法とは三大秘法の南無妙法蓮華経である。今一歩進めていうならば、父とは末法御本仏日蓮大聖人であり、子とは大聖人の弟子檀那である。世界とは日本国であり、益とは御本尊を受持し即身成仏することである。法とは法華経の会座で上行菩薩が伝えたところの題目すなわち南無妙法蓮華経なのである。

<講義>

再演法華とは、復習のようなものである。全体を要約してまとめ、最後を締めくくるのである。したがって人の一生に譬えると、最初の序品第一は、生まれることであり、この勧発品第二十八は死んでいく姿といえる。この生と死とを一念におさめて、妙法蓮華と名づけたのである。同じことは二十八品のおのおのについても言える。初めの題号が生であり、各品の終わりは死である。こうして各品ごとに生死生死と繰り返すわけである。しかしてこの生死の間の人生において、なすところの生命の振舞いが妙法蓮華経である。

すなわち、人生の根本法こそ、妙法であり、誰人もこれから逃れることはできない。否定しようとしても、最後はこれを認め、戻って来ざるを得ないのである。それに目覚め、妙法に適った振舞いであれば、その人の一生は、自在の幸福境涯となるのである。この根本法をバラモン教ではブラーマンと呼び、老子自然法爾(ほうに)といい、孔子は仁と称した。また、西欧の人々は神の御意といい、カントは「わが心の内なる道徳法則」と呼んだ。だが、いずれも、その実体がいかなるものかを探ることは、遂にできなかったのである。もし、彼らが日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法を知ることができたとしたならば、必ずや、歓喜の叫びをあげたに違いないと確信するものである。

(以下の講義は長いので割愛します。1084頁最後から3行目以下5頁ほど)

 

人生の一切の振舞いが、妙法を受持したときには、大宇宙のリズムに合致し、自在無碍の振舞いとなっていく。(御書、三世諸仏総勘文抄569頁の一節「実に~」は略)これこそ最高の自由である。

 

<感想>

さて、お疲れ様でした。

本文拝読しただけで大感動でした。朝から頑張って二つ書きました。

今日で御義口伝講義上・下二巻全部書くことが出来ました。

私の力不足で講義を載せられなかったこともありましたが、また、見直して追加で載せられたらいいんですけど。

御義口伝講義を発刊された昭和の時代と令和になった今では、なんか違う~と思って講義を省くこともありました。全部、私が独断と偏見で選びました。

 

御義口伝だけで製本したいと思っていたので、

今年は早くも3冊目、御義口伝版[「御書大好き!!」ができるかも!