御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

当体義抄①  全510頁 新613頁

この御書は長いので分けて載せることにします。

これが最初で、当体義抄の講義の第一章の範囲を①としました。

 

この御書は、大聖人が佐渡流罪中に書かれたもので、開目抄や観心本尊抄に並ぶ甚深の法門を説かれています。

 

対合衆の最蓮房はかつては天台の学匠であり、大聖人に法門の質問もよくされていたようです。

一生成仏抄、諸法実相抄、草木成仏口決、祈祷抄、十八円満抄等、重要な御書をたくさん頂いておられます。

当体義抄には年代、場所、宛名も記されていないのですが、「当体義抄送状」の最後のところに、

「国主信心あらんの後始めて申すべきの秘蔵の法門なり。日蓮、最蓮房に伝え畢わんぬ。」とあり、最蓮房に与えられたことが明らかにわかります。

教行証御書の中に「開目抄と観心本尊抄と当抄を教行証に配する」とあるように、教行証の3つを具備しているのは南無妙法蓮華経の一法だけであると断言されています。

開目抄は教の重といわれるのは、一切経の勝劣浅深を判ずるのに五重の相対をもって説かれておられるからである。観心本尊抄が行の重と言われるのは、教法によって立てた行法、すなわち受持即観心の義が説かれているからである。また、当体義抄が証(教行によって証得される果徳)の重であることは、御本尊を受持することによって、我が身が妙法蓮華の当体と顕れることを明かした御書だからである。

 

この御書は問いと答えという問答形式であり、この方法は立正安国論や聖愚問答抄などのように、難解な法門を分かりやすく理解させるために敢えて取られた方法といえます。

とりあえず、本文を区切って何回かにわけてブログに載せていきたいと思います。本文そのままわかるところは通解は省きますが、できるだけ現代文に近い言葉で書きかえようと思います。折角大聖人が解りやすくと思って説かれた御書なのに言葉がわからなくて敬遠してしまうということのないように、誰でも理解できやすいように、ということを目指して載せていきたいと思っています。

問いと答えの間に一行いれるようにします。「問う」はそのままで、「答う」は「答える」の意味ですが、あえてそのまま変換しないでおきます。文末の「なり」という断定の言葉もそのまま残すかもしれませんが、よろしくご理解お願いいたします。あと、難しい漢字はあえてひらがなで書くようにいたします。

 

当体義抄   文永10年(ʼ73) 52歳 最蓮房

  第一章 十界の事相に約す

<内容>

問答1:妙法の当体とは、宇宙森羅万象ことごとくをいう。

問答2:一往はわれら一切衆生も妙法の全体である。

 

 

<本文>

 問う。妙法蓮華経とは、その体何物であるか。


 答う。十界の依正、即ち妙法蓮華の当体である。


 問う。もしそうなら、我らのような一切衆生も妙法の全体であると言われるべきであるか。


 答う。もちろんそうである。経には「いわゆる諸法の乃至本末究竟等」云々とある。妙楽大師が(釈して)いうには「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土である」と。天台が(法華玄義の中で)いうには、「十如・十界・三千の諸法は、今経(法華経)の正しき体(法理の本体)なのである」云々。

南岳大師は(安楽行儀において)いう「いかなるものを名づけて妙法蓮華経というのであるか。

答う。妙とは、衆生(の生命の本質が)妙であるが故に(妙といい)。法とは、衆生(の存在そのものが)法であるが故に、(衆生が妙法の当体なのである)」と述べている。また天台がこれを釈していうには「衆生法妙(衆生の法は妙である)」と法華玄義で述べている。

 

 

<講義のまとめ>

我々の生命活動において、瞬間瞬間の生命の、依報と正報は依正不二の原理から一つの当体として考えることができる。詮じ詰めてみれば、依正とは生命と約せるのである。万法ことごとく一法も残さず、どんな現象であっても、どんな境涯の活動であっても、その本源をたどっていけば、妙法蓮華経の法則になっていると説かれている。しかるにこれは、あくまで理の上の法相であって、真実の当体蓮華の義を明かしていない。つまり不変真如の理の段階である。仏界を具していると理解しても、現実の生活が悩みだらけではどうしようもない。

では、仏界を湧現する方法は何か。これこそ仏法上の重要課題である。大聖人の仏法においては法華経二十八品ことごとく御本尊の説明書であり、御本尊を信じ、題目を唱えることによって、仏界を湧現できるのである。これが「隨縁真如の智」である。

我が身も妙法の当体、宇宙も妙法の当体である。われらが妙法を唱える時、我が生命が大宇宙の本源のリズムに合致する。その宇宙の本源力たる妙法蓮華経が現実の生活の上に、生命活動の上に、湧現してくる。その生命力、知恵が源泉となって苦難、苦悩を打開し、人間革命、生活革命を成就していくのである。したがって、十如是の最後の本末究竟等は迹門の釈迦の立場からでは理の上のことになり、本門文底から、即ち大聖人の読み方をすれば、本末究竟等とは仏界を湧現することである。大聖人の御生命そのものと言われる御本尊こそ本末究竟等の当体なのであり、我々は御本尊を信じて題目を唱えることで、妙法の当体と顕れることができるのである。