御書大好き!!

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当体義抄②  全510頁 新613頁

第二章 十界の事相の所以を釈す

<内容>

問答3:九界の生命活動も妙法の当体の働きである。その故は法性の妙理に洗浄の二法、迷悟の二法があり、そのことごとくが法性真如の一理たる妙法蓮華経に帰するのである。

 

【無明も悟りもすべて一念三千の生命から起こるということですね。難しく書かれているけど、そういうことかなと思います。】

 

<本文>

 問う。一切衆生の当体即ち妙法の全体ならば、地獄乃至九界の業因業果も、皆これ妙法の体なるや。


 答う。法性の妙理に染・浄の二法有り。染法は薫じて迷いと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり。迷いは即ち衆生なり。この迷・悟の二法、二なりといえども、しかも法性真如の一理なり。

譬えば、水精の玉の、日輪に向かえば火を取り、月輪に向かえば水を取る。玉の体は一なれども、縁に随ってその功同じからざるがごとし。真如の妙理もまたまたかくのごとし。一妙真如の理なりといえども、悪縁に遇えば迷いと成り、善縁に遇えば悟りと成る。悟りは即ち法性なり。迷いは即ち無明なり。譬えば、人、夢に種々の善悪の業を見、夢覚めて後にこれを思えば、我が一心に見るところの夢なるがごとし。【いい夢も悪い夢も自分の善悪の業から起こるとすれば、一つの心の作用といえる】【各人に本質的に実在している、この】一心は法性真如の一理なり。夢の善悪は、迷いの無明と悟りの法性があらわれたものである。
 このようにわかれば、悪迷の無明を捨てて、善悟の法性を本となすべきなり。【法性に基づくべきである】
 大円覚修多羅了義経に云わく「一切諸の衆生の無始の幻無明は、皆諸の如来の円覚(仏心)の心より建立す(作り出したものである)」云々。

天台大師、止観に云わく「無明癡惑、本来それ自身が法性である。癡迷をもっての故に、つまりそのおろかな働きの故に、法性が変じて無明となるのである」

妙楽大師、釈して云わく「理性は体無く、全く無明に依る。無明は体無く、全く法性に依る」。ここの説明:【九界の理性といっても、別に存在するのではなく、すべて無明の働きによるのである。また、無明といっても、無明に別に本体があって実在するのではなく、すべて法性の中に存在するのである】

「無明は断ずべき迷いであり、法性は証得すべき道理である。どうして体一だといえるのか」という疑問は、これらの文義をもって正しく理解すべきである。大論九十五の夢の譬えや、天台一家の玉の譬えは、誠に面白く(興味深く)思っている。

正しく無明・法性その体一なりという証拠は、法華経【方便品第二】に云わく「この法(十界ないし森羅三千の諸法)は法位(法性真如の位・仏)に住して、世間の相(差別の姿)は常住(本有常住の妙法の当体として、体一・同一)である」。大論に云わく「明と、無明と、異無く別無し。かくのごとく知れば、これを中道と名づく」云々。【悟りと無明とは本質において何の区別もない、異ならない、と。このように知ることを中道と名づけるのである。】


 ただし、真如の妙理に染・浄の二法有りということの証文は多いけれども、華厳経の「心、仏および衆生、この三つは差別無し」の文と、法華経の「諸法実相」の文とに勝るものはない。南岳大師云わく「心体に染・浄の二法を具足して、しかも異相無く、一味平等なり」。

 

また明鏡の譬えは、真実(まこと)につまびらかである。委しくは大乗止観の釈のごとし。また能き釈には、籤(法華玄義を釈したもの)の六に云わく「三千理(一念三千の道理)に(理俱として)とどまっていれば)同じく無明と名づけ、一念三千が(事実の上に仏果として成就すれば、)ことごとく常楽というのである。一念三千という実相は不変で、改めることがないから、無明即ち明である。一念三千が衆生、仏ともに常住であるから、俱体俱用【無作三身の本仏が体と用を共に具えていること】である。」文。この釈は明瞭である。