御書大好き!!

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当体義抄③ 全511頁 新615頁(~617頁6行目)

第三章 信受に約す

<内容>

問答4:再往は権教を捨て、実教の法華経を信ずる人のみ当体蓮華である。所詮、日蓮大聖人の弟子のみが本門の当体蓮華と顕れるのである。

 

<本文>

 問う。一切衆生皆ことごとく妙法蓮華経の当体ならば、iは我らがごとき愚癡・闇鈍の(愚痴で、道理に暗く、理解も鈍い)凡夫も、即ち妙法の当体であるのか。


 答う。当世の諸人これ多しといえども、二種類に収まってしまう。それは、権教の人、実教の人なり。しかるに、権教方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体ということはできない。実教の法華経を信ずる人は、即ち当体の蓮華、真如の妙体なのである。
 涅槃経に云わく「一切衆生、大乗を信ずるが故に、大乗の衆生と名づく」文。大強(だいごう)精進経に云わく「衆生如来と同じく共に一法身にして、清浄にして妙なることたぐいなきを、妙法華経と称するのである」と。南岳大師、四安楽行に云わく「法華経を修行すれば、この一心一学に(余念のない信心・修行に)衆果(あらゆる果得)がすべて備わる。一時に具足するのであって、次第に得入するのではない。

また蓮華の華が開くと同意に、一つの華に多くの果実を一時に具足するようなものである。これを一乗の衆生の義と名づけるのである」。

また云わく「二乗の声聞および鈍根の菩薩の修行は、方便道の中に歴劫修行である。利根の菩薩は、正直に方便を捨てて歴劫修行の道をとらない。もし法華三昧を証得するならば、衆果(一切の果得)がことごとく具足する。これを一乗の衆生と名づける」と。
 南岳の釈の意は、「次第行」の三字をば当世の学者は別教なりと理解している。ところが、この釈の意は、法華の因果具足の道に対して、方便道のことを次第行といっているので、爾前の円、爾前の諸大乗経ならびに頓漸・大小の諸経をさしている。

証拠は、無量義経に云わく「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説した」と説かれている。大強精進経の「同共」の二字に習い相伝するなり。法華経に同共して信ずる者は、妙経の体なり。不同共の念仏者等は、既に仏性・法身如来に背くが故に妙経の体にあらざるなり。

利根の菩薩は、正直に方便を捨てて次第行を修せず(歴劫修行をしない)。もし法華経を証する時は衆果ことごとく具足す。これを一乗の衆生と名づくるなり。


 これらの文の意を考えてみれば、三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖(凡夫・聖人)等を、大乗の衆生、妙法蓮華の当体とは名づけるべきではないのである。たとえ仏であっても、権教の仏には、仏界すなわち真実の仏と名付けるべきではない。権教の三身は、(永遠の生命を説いていない故に)いまだ無常を免れないからである。ましてや、そのほかの九界には名づけられない。故に「正像二千年の国王・大臣よりも、末法の非人の方が尊貴である」と釈するも、この意である。


 所詮、妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母の生みたるところの肉身のことである。
 南岳釈して云わく「一切衆生法身の蔵を具足して、仏と一にして異なることがない。この故に、法華に云わく『父母の生みたるところの清浄の常の眼・耳・鼻・舌・身・意も、またかくのごとし』と」説いている。また云わく「問うて云わく、仏、いずれの経の中に、眼等の諸根を説いて名づけて如来としているのか。答えて云わく、大強精進経の中に『衆生如来は同じく共に一法身にして清浄にして妙なること比類がない。それを妙法蓮華経と称するのである』と」文。文は他経(方便権教)に有るといえども、下文顕れ已われば(法華経がすでに説き顕されているから会入の立場から)、引用することができるのである。

 正直に方便を捨てて、ただ法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即ち一心に顕れ、その人の所住の処は常寂光土なり。能居・所居、身土、色心、俱体俱用、無作の三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中のことである。
 これ即ち法華の当体、自在神力の顕すところの功能なり。あえてこれを疑うべからず、これを疑うべからず。

(御書通りに段落を区切ってないです。すみません。)

 

<講義より>

同共(どうく)の二字に甚深の意味がある。我ら衆生にとっては同共とは信心である。信心によって初めて御本尊と同共し、我が身が妙法蓮華経の当体とあらわれる。清浄妙無比の最高に清浄で尊極な生命をあらわしていくことが出来るのである。

(以下、長い講義がありましたが、割愛させていただきます。)

※わかりにくいことがあれば、コメントいただければ、調べてわかることは載せさせていただきます。