第5章 如来の自証化他を明かす
<内容>
問答6:五百塵点劫の当初に日蓮大聖人が当体蓮華を証得した。
講義に、この章が一番大事だと書かれています。
<本文>
問う。劫初からこれまでの間に、一体だれがこの当体蓮華を証得したのであろうか。
答う。釈尊、五百塵点劫の当初(そのかみ)即ち久遠元初に、この妙法の当体蓮華を証得して、その後、迹を垂れて世々番々に色んな姿で成道を唱え、能証・所証の本理を顕したのである。
そして今日また、中天竺摩訶陀国に出世して、この蓮華を顕そうとしたが、いまだ衆生の機根も熟さず、時もきていなかった。故に、一つの法蓮華において、三つの草花に分別し、三乗の権法(仮の教え)を施し、擬宜(ぎぎ)・誘引して四十余年が過ぎた。この間は、衆生の根性万差なれば、種々の草花の教えを借りて権教をあらわしたが、終に妙法蓮華を顕されなかった。
故に、無量義経に云わく「我は先に道場菩提樹の下に乃至四十余年にはいまだ真実を顕さず」。法華経に至って、四味三教の方便の権教・小乗の種々の草花を捨てて、唯一の妙法蓮華を説き、三つの草花の譬喩蓮華を開いて、一つの妙法蓮華を顕す時、四味三教の権教の人たちに初住の蓮華を授けることから開始して、開近顕遠の蓮華に至って、二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果の蓮華を得たのである。
<講義>
この章からは、当体蓮華を証得した人を明かす段である。初めに久遠元初における証得と垂迹化他を明かし、次に釈迦在世の証得の人を論じ、最後に末法の証得の人を明かされている。この章は、正しく久遠元初に当体蓮華を証得した人は、御本仏日蓮大聖人であることを明かされている。したがって、本抄においても、最も重要な証であるといえよう。五百塵点劫の当初とは、正しく久遠元初であり、釈尊とは本地自受用報身・日蓮大聖人である。この義に惑い、五百塵点劫に寿量品文上の教主が証得したと解する者は、この章のみならず本抄の元意を理解しないものである。
「能証・所証の本理を顕す」についていえば、能証は、智であり、所証は境である。したがって、これは本地難思の境地冥合・本有無作の当体蓮華を顕すということである。本理とは極理と同意であり、兄弟抄には「法華経の極理・南無妙法蓮華経の七字」とある。
「能証・所証の本理を顕す」とは諸仏が本地を明かすということをもいうのである。これは五仏道同の儀式といって、総諸仏、過去仏、未来仏、現在仏、釈迦仏にせよ、中間(ちゅうげん)、今日のあらゆる仏が今日と同じ説法の儀式で当体蓮華を明かすということである。すなわち爾前において種々の草花を施し、迹門にいたって、開三顕一の蓮華を説き、本門にいたって開近顕遠の蓮華を顕し、内証の寿量品には本地難思の境地冥合・本有無作の当体蓮華を顕すのである。
法華経文上においては、悟りは等覚位までであって、仏の境涯たる妙覚は説かれていない。しかるに大聖人は「妙覚の極果の蓮華を得るなり」と仰せられている。これは文底の意であって、文底の意では皆、名字妙覚位に入るのである。すなわち寿量品を聞いた大衆は文上の寿量品を聞き、等覚位に登ったことになっているが、文上を聞くと共に文底の深秘を悟り、ことごとく久遠元初に戻って名字妙覚の位に入ったのである。台家の口伝に「等覚一転理即に入る」とあり、当家深秘の口伝に「等覚一転名字妙覚」とあるのがこの意である。
<感想>
講義の最後のところは、難しいかもしてないですが、御書をよく読んでる人には、聞きなれた言葉かもしれないですね。講義はここで終わっているので、説明はできないですが、「等覚一転名字妙覚」ってすぐ覚えられそうな御文ですね。
教学用語検索によると:
菩薩の修行の段階で五十二位のうちの最高位の第52位。等覚[とうがく]位の菩薩が、42品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。
等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる名字の凡夫の位に返り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを「等覚一転名字妙覚」という。