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当体義抄⑧-1 全515頁 新621頁

第八章 当流の法門の意を明かす

<内容>(この段は長いので二回に分けて載せますね。全体で12~14の問答の内容になります)

問答12:当流の法門の意は、二十八品の初めにある妙法蓮華経の題目が当体蓮華の証文である。

問答13:品々の題目の蓮華は、当体譬喩を合説するが故に、品々の題目は当体蓮華をいう。

問答14:法華経の意は譬喩即法体、法体即譬喩である。

 

<本文>

問う。当流の法門の意は、諸宗の人が来て当体蓮華の証文を問うた時は、法華経のどの文を出していうべきか。


 答う。二十八品の始めに妙法蓮華経と題している。この文を出すべきである。


 問う。何をもって、品々の題目が当体蓮華であるということを知ることができるのか。その理由は、天台大師が、法華経の首題を釈する時、「蓮華とは譬喩を挙げているのである」と云って、譬喩蓮華と釈しているではないか。


 答う。題目の蓮華は当体・譬喩の両方の蓮華を合説している。天台の今の釈は、譬喩の辺を釈したときの釈である。玄文(玄義)第一の本迹の六譬(ろくぴ)は、この意味である。同じく第七は当体蓮華の辺を釈している。故に、天台は題目の蓮華をもって当体・譬喩の両説を釈しているので、失(とが)は無いのである。


 問う。何をもって、題目の蓮華は当体・譬喩合説しているということを知ることができるのか。南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時、「妙とは、衆生が妙であるからであり、法とは、衆生が法そのものであるからである。蓮華とは、草花の蓮華を借りて譬えている」文。南岳・天台の釈既に譬喩蓮華といって釈しているが、これはどうか。
 答う。南岳の釈も天台の釈と同じである。ただし当体・譬喩合説すということ、経文では明らかではないといっても、南岳・天台既に天親の法華論と竜樹の大智度論に依って、合説の意と判釈している。


 いわゆる、法華論には「妙法蓮華とは、二種の義有り。一には出水の義である。乃至泥水を出ずるをば、諸の声聞が、如来(仏)が大衆の中に入って座ること、諸の菩薩が蓮華の上に座るように、如来の無上の智慧・清浄の境界を説くを聞いて、如来の密蔵(秘密の蔵すなわち南無妙法蓮華経)を証得することを喩えるが故である。

二に華開とは、諸の衆生、大乗の中において、その心が怯弱(こうじゃく)で、信心を生ずることができないので、如来の浄妙法身を開示して、信心を生ぜしめようとするが故である」と説かれている。
 「諸の菩薩」の「諸」の字は法華已前の大乗小乗の諸の菩薩が、法華経に来て仏の蓮華を得るということが、法華論の文に分明である。それでわかるのは、「菩薩が法華経以前において、処々で悟りを得た」というのは方便なのである。

天台、この法華論の文を釈していうには「今、この論の意味を解釈すると、『衆生をして浄妙法身を見せしむ』と言っているのは、これは妙因の開発することをもって蓮華とすることなのである。『如来の大衆の中に入って蓮華の上に坐す』と言うのは、これは妙報の国土を指して蓮華といっているのである」。

 

以下の本文は⑧-2に続きます。