第八章 ⑧-1の続きです。
<本文>
また天台、当体・譬喩合説する様を委細に釈された時、大集経の「我、今、仏の蓮華を敬礼する」という文と、法華論の今の文とを引証して、釈してこのように言われている。「もし大集経によるならば、修行の因果を蓮華とする。菩薩が蓮華の上に座っていれば、即ちこれ因の華である。仏の蓮華を礼拝するならば、即ちこれ果の華である。もし法華論に依らば、依報の国土をもって蓮華とするのである。また菩薩、蓮華の行を修するに由って、報として蓮華の国土を得るのである。
当に知るべし、依報正報の因果はことごとくこれ蓮華の法である。したがって、どうして譬えをもって顕すことを必要とするのであろうか。しかしながら、鈍根で、法性の蓮華を理解できない人のために、世の華を挙げて譬えとすることもまた、何の妨げとなろうか」。また云わく「もし蓮華でなければ、何によって完全に、上に述べた法華の諸法を喩えられるであろうか。法と譬えとを並べ論ずるが故に、妙法蓮華と称するのである」。
次に竜樹菩薩、大論に説いて「蓮華とは法と譬えを並べ挙げた表現である」文。伝教大師は(守護国界章巻中の中に)、天親・竜樹の二論の文を釈して云わく「法華論の文は、ただ妙法蓮華経と名づけるのに、二種の義が有るといっているのであり、ただ草花の蓮華のみに二種の義が有るといっているのではない。
およそ法と喩えとは相似たるものが好ましいのである。もし似ていなかったら、何をもってか他を理解させられようか。この故に、釈論に『法喩並べ挙ぐ』といわれているのである。一心の妙法蓮華とは、因の華と果の台とが、同時に増長するのである。この義は理解しにくいが、喩えをかりれば理解しやすい。そして、この理が教をあらわす故に、名づけて妙法蓮華経というのである」文。
これらの論の文、釈の義分明である。文についてよく見るべきである。包み隠すところは一切なく、合説の義は完璧である。
およそ法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩である。故に、伝教大師、釈して云わく「今経は譬喩が多いといっても、大きな喩えは七つである。この七喩は即ち法体であり、法体は即ち譬喩である。故に、譬喩の外に法体無く、法体の外に譬喩は無い。
ただし、法体とは法性の理体であり、譬喩とは即ち妙法の事相の体である。事相即理体である。理体即事相である。故に、法譬一体というのである。以上の理由で、論の文・山家の釈は、皆、蓮華を釈するには、『法体と譬喩を並べ挙げている』と」述べている。釈の意が分明であるから、これ以上重ねて論ずることはしない。
<講義より>
この章は、正しく文底の本地所証を明かす段である。法華経二十八品の品々の題目をもって、本有無作の当体蓮華の証文とする。
この章で論ずる当体蓮華は、あくまで文底下種に約して、久遠名字の所証、南無妙法蓮華経をもって本地所証と名付けることを知らなくてはならない。脱益の教主の所説たる題目を借りて、日蓮大聖人が久遠元初、名字凡夫位に証得した本有無作の当体蓮華の証文としているのである。
以下、何度も講義を読みましたが、ここにまとめるのは難しいので割愛します。
最後の、蓮華の二義の説明はわかりやすかったです。出水の義と華開の義です。
蓮華は泥沼の中にあって、しかも泥沼の上にいき(出水の義)、そこに清浄な華を咲かせる(華開の義)。我々の生命自体も煩悩に満ち、苦悩があり、また、偏見、我見が渦巻く、汚濁した泥沼のような社会にあって、御本尊根本に題目をあげきっていけば、生命を浄化し、自身の仏界を開き、最高に幸せな境涯を開いていくことができる。まさに蓮華の譬えのように、泥沼に咲く花を目指して頑張りたいと思います。