第9章 如来在世の証得を明かす
<内容>
問答15:釈迦在世に当体の蓮華を証得したのは、本門寿量の教主のみである。
問答16:爾前の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せず、ただ本門寿量の説顕れての後は、霊山一会の衆、皆ことごとく当体蓮華を証得したのである。
<本文>
問う。如来の在世に、誰か当体の蓮華を証得したのだろうか。
答う。(法華経以前の)四味三教の時は、三乗・五乗・七方便・九法界・帯権の円の菩薩(権を帯びて説かれた爾前の円教の菩薩)ならびに教主、乃至法華迹門の教主にいたるまで、総じて、本門寿量の教主を除く外はすべて、本門の当体蓮華の名をも聞かなかった。まして証得することがどうしてありえようか。
開三顕一の迹門における無上菩提の蓮華の法門さえ、なお四十余年の間にはこれを顕していない。故に、無量義経に「終に無上菩提を成ずることを得ず」と述べて、迹門開三顕一の蓮華は、爾前にこれを説かなかったと言っている。まして、開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華を、迹化の弥勒等がこれを知りえるわけがない。
問う。何をもって、爾前の円の菩薩や、迹門の円の菩薩が、本門の当体蓮華を証得しなかったということを知ることができるのか。
答う。爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず、迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らなかった。天台云わく「権教の補処(である大菩薩も)は迹化の衆を知らない、同様に、迹化の衆は本化の衆を知らない」といっている。伝教大師云わく「これ直道といえども、大直道ではない」云々。あるいは「いまだ菩提の大直道を知らないが故に」といっているのは、この意である。
爾前・迹門の菩薩は、一分、断惑証理の義があるといえども、本門に相対する時は、当分の断惑であって跨節の断惑ではない。そのため未断惑といわれるのである。
したがって、「菩薩、処々に得道した」と釈しているけれども、二乗を嫌うために、一往の「得道」の名を与えたまでである。故に、爾前・迹門の大菩薩が、仏の蓮華を証得する(悟る)ことができるのは、本門の時である。真実の断惑は、寿量の一品を聞いた時である。
天台大師、涌出品の「五十小劫という長い年月を、仏の神力の故に諸の大衆をして半日のようだといわしめた」という文を解釈して云わく「解者(悟っている地涌の菩薩)は、短に即して長、半日の時日を五十小劫という長い年月と見る。惑者(惑っている迹化の衆)は、長に即して短、五十小劫という長い年月を、わずか半日としか見ることができない。」と説いている。
妙楽大師は、これを受けて釈して云わく「菩薩すでに無明を破っている。これを称して解とするのである。大衆なお賢位(すなわち十信の位)にとどまっている。これを名づけて惑とするのである」と。釈の意味は明らかである。爾前・迹門の菩薩は惑者なり、ただ地涌の菩薩だけが解者であるということである。
ところが、当世天台宗の人の中に、本迹の同異を論ずる時「異なることなし」といってこの文を考慮するとき、解者の中に迹化の衆も入っているというのは、大いなる僻見である。経の文、釈の義が明らかであり、全く疑う余地はない。文のごときは、地涌の菩薩の五十小劫の間如来を称揚するのを、霊山迹化の衆は半日のようだと説いているのを、天台は、解者・惑者を出だして、「迹化の衆は惑者であるから、故に半日と思ってしまう。これ即ち僻見である。地涌の菩薩は解者なるが故に五十小劫と見る。これ即ち正見である」と釈しておられる。
妙楽は、これを受けて、「無明を破する菩薩は解者である。いまだ無明を破らない菩薩は惑者である」と釈されている、これは文によって明らかである。「迹化の菩薩であっても、住上(初住以上)の菩薩はすでに無明を破する菩薩である」という学者は、無得道の爾前経を得道できると習ったが故である。
爾前・迹門の当分において、一往、妙覚の位があるというけれども、本門寿量の真仏に望んだ時は、あくまで「惑者」であり、「なお賢位という十信の位を出でない者」といわれるのである。権教の(法報応の)三身が、いまだ無常を免れない故は、夢中の虚仏(夢の中にいる架空の仏)だからである。
爾前と迹化の衆とは、いまだ本門に至らない時は未断惑の者と云われ、本門に至る時正しく初住に叶うのである。妙楽、釈して云わく「迹を開き本を顕せば、皆初住に入る」文。「なお賢位に居す」の釈、これを思い合わしてみなさい。爾前・迹化の衆は、惑者にして、いまだ無明を破れない仏菩薩であるということ、真実である、真実である。
故に知んぬ、本門寿量の説顕れての後は、霊山一会の衆、皆ことごとく当体蓮華を証得するのである。二乗・闡提・定性・女人等の悪人も、本仏の蓮華を証得する。伝教大師、一大事の蓮華を釈して云わく「法華の肝心、一大事の因縁は、蓮華の顕わすところである。一とは一実相(ただ一つの中道実相)である。大とは性広博(その実相が全宇宙の森羅万象ことごとくに亘っている)ということである。事とは法性(本来具わったところの事実の姿・振舞い)の事である。一究竟事は円の理境・智慧・修行、円の法身・般若・解脱のことである。一乗・三乗、(成仏できないとされた)定性・(成仏が定まらない)不定性、内道・外道、(成仏を願わなかった)阿闡提(あせんだい)・(正法を信ずることができなかった)阿顚(あてんだい)、皆ことごとく一切智地(仏の境涯)に到ることができる。この一大事によって、仏の知見を開・示・悟・入して一切成仏す」と述べている。これは在世の女人や一闡提や定性や二乗等の極悪人が、霊山において当体蓮華を証得したことをいっているのである。