第十一章 仏法以前の災難の因を追究
<本文>
難詰していう。仏法が弘まる以前に、国において災難がすでにあった。どうして謗法の者の故といえるのか。
答えていう。仏法以前に五常(儒教の仁・義・礼・智・信)をもって国を治めるのは、遠く仏誓をもって国を治めたことになるのである。礼儀を破るのは、仏の説き示された五戒を破ることになるのである。
第十二章 五常は仏誓に基づく
<本文>
問うていう。その証拠はなにか。
答えていう。金光明経には「一切世間のあらゆる善論は、皆この経に因る」と説かれている。法華経には「もし俗世間の経書、治世の言論、生活の助けとなる行為などを説いても、皆正法に順じている」と説かれている。普賢経には「正法をもって国を治め、人民を邪(よこしま)に虐げない。これを第三の懺悔(ざんげ)を修すると名づける」とある。涅槃経には「一切世間の外道の経書は、皆これ仏説にして外道の説ではない」とある。止観には「もし深く世法を識らば、即ちこれ仏法なり」とある。弘決には「礼楽(礼儀と音楽)が先駆けて広まり、真の道が後に開ける」とある。広釈には「仏は、(老子・孔子・顔回の)三人を遣わして、しばらく真旦(中国)を教化した。五常はもって五戒の一面を明かしたのである。昔、大宰が、孔子に問うていうには、『三皇五帝は、これ聖人であろうか』。孔子答えていう。『聖人ではない』。また問う『あなたは聖人か』と問うと、また答える。『そうではない』。また問う。『もしそうなら、誰が聖人なのか』。答えていう。『私が聞くところでは、西方に聖人がいる。釈迦と称する』と」。
これらの文をもってこれを勘うるに、仏法以前の三皇五帝の、五常をもって国を治め、夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼儀を破って国を滅ぼすのは、根本的には遠く仏道における誓いの持破と同じことになるのである。
<講義のまとめ>
金光明経、法華経、普賢経、涅槃経、摩訶止観のそれぞれに、世間の法は皆仏説と同じ、世間の法が仏法にたがわないなどと説いているところを書かれている。五常をもって国を治めるというが、五常も元々は仏誓に基づいているということを、ここでは言われている。「仏法以前の話で、礼儀を破って国を滅ぼしたことが、究極的に仏道の誓願を破ったことと同じになる」と言われています。