第十八章 仏法中怨を免れるため謗法破折
<本文>
問うていう。汝、僧の身でありながら、比丘の罪を暴くのは罪業(罪を犯す行為)ではないのか。
答えていう。涅槃経には「もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責(かしゃく)し、駆遣(くけん)し挙処(こしょ)しなければ、当に知るべきである、この人は仏法の中の怨である。もし能く駆遣し呵責し挙処すれば、これ我が弟子であり、真の声聞である」とある。
私は、この文を見るが故に「仏法の中の怨なり」との責めを免れんがために、周囲の目や耳を気にかけずに、法然上人ならびに所化の衆(その門下の人々)等が阿鼻地獄に堕ちるであろうと言っているのである。
この道理を聞き理解する僧俗の中に、少しは改心する者もいる。
もし一度、この考えた文をご覧になった人が、上に挙げたとおりに行わないならば、大集経の文の「もし国王がいて、我が法の滅びようとするのを見て、捨てて擁護しなければ、無量世において施・戒・慧を修するとも、ことごとく失われて、その国の内に三種の災難が起こってくるであろう。乃至命終して、大地獄に生まれるであろう」との予言を免れることはできないであろう。
仁王経には「もし王の福が尽きる時は、・・・七難必ず起こるであろう」と説かれ、この大集経の文には「無量世において施・戒・慧を修すとも、ことごとく滅失す」等と説かれているのである。この文を見るに、しばらく万事を差し置いて、まずこの災難の起こる由を考えるべきであろう。もしそうしなければ、いよいよまた重ねて災難が起こるであろう。
愚かな自分の考えは以上の通りである。取捨は人の意に任せる。
<感想>
面白いですね。同じ僧として内部告発はしていいのかって聞いてる。罪にはならないのかと。これに対して、涅槃経の文を引いて「比丘の罪を明らかにすること」こそ、僧として正しい行き方であることを断言されています。
正法誹謗する法然門下は堕地獄であるといわれ、仏法の正義と清流を守ることが仏法者の義務であり責任であると示されている。仏教を滅ぼすのは仏弟子の中から、仏の真意に背く我見・邪見を立てる者がいるからであって、それらを獅子身中の虫といい、それを打ち破ることが災難を対治することへの近道であると述べておられます。
現代も災難が多すぎる世の中になってしまって、邪宗はもはや力なしと雖も、いまだにそこに正邪を弁えない人々が祈りを捧げにいくことも多く、「善神はそこにはおらんよ!正しい仏法で祈らないと災害は減らないんですよ!」と叫びたいのですが、日本は令和になっても、なかなか広宣流布が出来てるとはいいがたいかもしれません。海外の同志のほうがすごいなって思うことが多いです。
今回で災難対治抄を終わります。読んでいただいた方ありがとうございました。
御書を現代文に直して読みやすいようにして、ブログにあげようと頑張っています。
講義本の通解を参考にはしていますが、自分の書きたいような言葉に勝手に直しているところも多いので、本の通解と違うやんって突っ込まないでくださいね。
よろしくお願いします。