第五章 修行に約し爾前不成仏を明かす
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故に、三蔵教を修行する【菩薩は】三僧祇・百大劫の修行を経て、ついに仏になろうと思えば、我が身より火を出だして、灰身入滅といって、灰となって消え失せるのである。通教を修行する【菩薩は】七阿僧祇・百大劫を満てて、仏になろうと思えば、前の三蔵教と同様に、灰身入滅して跡形も無く消え失せてしまうのである。
別教を修業する菩薩は、二十二大阿僧祇・百千万劫の修行をやり尽くして、ついに仏になったと思えば、生死の夢の中の権教の成仏なので、本覚の寤の法華経の時には、別教には実の仏はなく、夢の中の仏果にすぎない。故に、別教の教えには実の仏はないといわれるのである。
別教の証得の道は、初地に始めて一分の無明惑を断じて、一分の中道の理を顕し、始めてこれを見れば、別教は隔歴不融の教えと知って、円教に移り入って円人(円教の人)となってしまい、別教には留まらないのである。
上・中・下の三根の不同あるが故に、初地・二地・三地から等覚までは円教の人となるのである。故に、別教の経文の上には仏はないのである。故に、「教のみ有って人無し」といわれるのである。
故に、伝教大師は守護国界章に「有為の報身仏は夢中の権果であり〈前の三教の修行の仏〉、無作の三身は覚前の実仏である〈後の円教の観心の仏〉」と説かれている。
また云わく「権教の三身はいまだ無常を免れない〈前の三教の修行の仏〉、実教の三身は俱体俱用で常住である〈後の円教の観心の仏〉」。この釈を能く能く心得べきである。権教は難行苦行して、たまたま仏になったと思えば、夢の中の権(かり)の仏だから、本覚の寤の時には実の仏はないのである。極果の仏【仏道修行の究極の果としての仏】がないので、「(有教無人)教のみ有って人無し」というのである。ましてやそんな教法を実といえるのであろうか。この権教を取って修行するのは、一代聖教に迷っているのである。
(講義は難しいので割愛します)