御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

松野殿御返事 (三界無安御書) 全1388頁 新1997頁

 建治4年(ʼ78)2月13日 57歳 松野六郎左衛門

 種々の物、送っていただき確かに頂戴しました。山中の住まいの事、思いやっていただき、雪の中ふみ分けて訪ねてくださった御志は、きっと法華経・十羅刹もお存知の事でありましょう。
 さて、涅槃経には「人命のとどまらないことは山水の流れにも過ぎることである。今日は生きていても、明日の命は保ち難い」と説かれている。

摩耶経には「譬えば屠殺人に追われて屠殺場に赴く羊のように、人の命もまたこのように一歩一歩死地に近づいているのである」とあります。法華経には「三界は安きことがない、ちょうど火宅(火災に遭った家)のようである。衆生の苦悩は充満して、はなはだ怖るべき世界である」等と説かれている。これらの経文は、我らが慈父である大覚世尊が、末代の凡夫をいさめられ、幼な子のような末代の衆生に注意を促された経文である。
 しかしながら、(末代の衆生は)少しも驚く心がなく、刹那も道心を発さず、野辺に捨てられたら一夜の中にはだかになってしまう身を飾るために、時間や手間をかけて衣を重ねようと励んでいる。命が終われば、三日の内に、(その体は)水となって流れ、塵となって大地にまじわり、煙となって天にのぼり、あとかたもなく消えてしまう身を養おうとして、多くの財を蓄える。このことは昔から言い古されてきたことである。
 ただし、現在のこの体こそ哀れでならない。日本国は、数年の間、打ち続いて飢饉が進み、衣食はまったくなくなり、畜類を食いつくし、ついには人を食べる者が現れ、あるいは死人、あるいは小児、あるいは病人等の肉を裂き取って、魚・鹿等に加えて売ったので、人々はこれを買って食べたのである。この国、思いもかけず、大悪鬼の国となってしまった。
 また、去年の春より今年の二月中旬まで、疫病(伝染病)がこの国に充満した。十軒に五軒、百軒に五十軒、皆病気になって死に、あるいは身は病気にはならなかったけれども、心は大苦に値っている。病気の者よりもなお怖ろしい。たまたま生き残っても、あるいは影のごとくそいし子もなく、両眼のように仲良く顔をならべていた夫妻もなく、天地のように頼りにしていた父母も亡くなっている。

生きいてもどうしていいかわからない。心ある人々は、どうして世を厭わないでいられようか。

「三界は安きことなし」と仏は説いておられるが、法に過ぎてあまりにも悲惨な状態に見える。

 しかるに、日蓮は凡夫ではあるが、このような世の中になることを、仏兼ねて説きおかせられたのを、国主に申し聞かせたのである。ところが、この進言を用いられることもなく、いよいよ迫害を加えてきたので、力及ばず、この国既に謗法の国となってしまった。法華経の敵になってしまったから、三世十方の仏神の敵となった。
 あなたの心で推し測ってください。日蓮に、どのような大科があったとしても、法華経の行者なのである。南無阿弥陀仏といえば、どのような大科あったとしても、その人は念仏者ではないとはいいがたい。

南無妙法蓮華経と我が口にも唱える故に、罵られ、打たれ、流され、命に及んだけれども、法華経を勧めたならば、法華経の行者でないことがあろうか。法華経には、法華経の行者を怨む者は阿鼻地獄に堕ちると定めている。

四の巻には、仏を一中劫罵るよりも、末代の法華経の行者を悪(にく)む罪の方が深いと説かれている。七の巻には、法華経の行者を軽んじた人々は、千劫阿鼻地獄に入ると説かれている。五の巻には、我が滅後の末法に入って、法華経の行者が必ず出現する。その時、その国に持戒・破戒等の無量無辺の僧等が集まって国主に讒言して、法華経の行者を流罪にして失きものにしようとすると説かれている。

そのため、日蓮は、このような経文がことごとく符合したのである。未来に仏になることは疑いないと確信する。詳しくはお会いしたときに申し上げましょう。
  建治四年戊寅二月十三日    日蓮 花押                    松野殿御返事
 

<感想>

難しい御書ではないですが、内容がじーーーんときますね。人はいつ死ぬかわからないから、日ごろから信心をちゃんとしておかないとな~って思うばかりです。

法華経の行者に悪口、迫害、つまり学会批判してる人たちは地獄に堕ちる、と説かれている。そういう人々をどうやって救ってあげるか。難しい問題だ。

なんならほっときたいところですけど、救える人がいるなら、折伏しないといけませんね。毒鼓の縁ていいますからね。かわいそうだけど、折伏してきかん人は一回は地獄に堕ちるんだ。生きてたら苦しむんだ。まさにそういう知り合いが周りにいる。ってことあなたはありませんか。そういう人の仏性を出してあげたいですよね。こっちの祈りですね。私はまだまだ祈り足りないと反省します。