時々、自分が守られないことで御本尊を疑う気持ちになりますか?なりませんか?
どんなことがあっても、疑わないよって言う人が強盛な信心してる人です。教学もあると思う。教学がないとなんか起こったときに退転してしまうらしいです。
さて、今回読んだ箇所(第8回 156頁)で、大聖人が佐渡に流されたことで、世間の人たちは更に大聖人を批判したでしょうし、大聖人門下も信心を疑って退転した人が多くいたそうです。
法華経で成仏することができた二乗の話が面白かったです。爾前経では成仏できないと徹底的に弾呵された二乗達。釈尊が声聞達を呵責する厳しさは容赦ないものでした。大聖人は爾前経で成仏できないと責められた迦葉尊者の泣く声は、三千世界に響きわたったと言われています。利他を忘れ自利のみに生きる二乗の心の無明を断ち切るための仏の大慈悲の弾呵です。
しかるのち、法華経で成仏が許された四大声聞は誓います。(感謝感激雨あられやね)「真の声聞」として仏の声を一切衆生に聞かせていきますと宣言する。法華経の大恩に報じるために、法華経の行者を守護することを仏の前で誓っている。
であるのに、大難を受けている大聖人をなぜ、守護しないのか。大聖人が真の法華経の行者ではないというのか。
このあたりの「世間の疑」と「自心の疑」について詳しく書かれているのが、この回です。是非読んでくださいね。大事です。全部は転写できないので。
寿量品では久遠実成の仏に諸仏が統合され、久遠実成の釈尊こそが成仏を目指す一切の菩薩の師となるべき仏であることが明かされた。久遠実成の仏は「永遠の妙法」と一体の「永遠の仏」を指し示している。この仏こそが、実在の人間である釈尊の本地であると説かれているのは、宇宙根源の法である永遠の妙法の力を、人間生命の上に開きうることを示している。
仏とは生命に永遠の妙法の力が開花した存在、すなわち妙法蓮華経です。この妙法蓮華経こそ仏の本体であり、本仏です。末法においては、法
華経の行者の身においてのみ、妙法が現れているのです。(中略)
(175頁)方便品で明かされる「十界互具」も寿量品で久遠実成の仏が説かれることによって指示される「種子の妙法」も、法華経の行者の一身以外にあるのではありません。ゆえに大聖人は御義口伝で「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と仰せです。ここに諸天の守護と法華経の行者をめぐる問題が「この書の肝心・一期の大事」といわれるゆえんがあり、また「開目抄」が「人本尊開顕」の書といわれるゆえんがあるのです。