御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

報恩抄 スピンオフ②

今日は現代語訳報恩抄の49頁8行目からです。

池田先生だとこういう観点からは講義されないと思いましす。独断と偏見の塊の私が、おもしろいなと思ったところを書いていきます。現代語訳を参考に補足しながら書いていきます。色文字とアンダーバーも入れました。何やろと思いながら読まれるといいかな。

 

〈御書本文〉

付法蔵の人々(正法時代の正師)は四依の菩薩であり、仏の使いである。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭をはねられ、仏陀密多は十二年・竜樹菩薩は七年間、国王を正法に導くために赤い旗を掲げ続けた。馬鳴菩薩は金銭三億の代わりとなって敵国に赴き、如意論師は対論の場で不当に負けたと宣告され、恥辱のあまり自決した。これらは正法一千年の内のことである。
 像法に入って五百年、仏の滅後一千五百年という時に、漢土に一人の智慧のすぐれた人がいた。始めは智顗と名乗り、後には智者(天台)大師と称された。法華経の義をありのままに弘通しようと思われた。天台以前の非常に多くの智者たちはそれぞれに釈尊の一代聖教を分類・整理していったが、突き詰めると十の流派となっていた。いわゆる南三北七である。十の流派があったけれども、そのうちの一つの流派が最も支持されていた。いわゆる南三の中の第三の光宅寺の法雲法師である。
 この人は一代の仏教を五つにわけた。その五つの中から三経を選び出した。いわゆる華厳経・涅槃経・法華経である。一切経の中には華厳経第一、大王のごとし涅槃経第二、摂政・関白のごとし。第三法華経は公卿等のごとしこれより以下は一般の民衆のようなものである。

この人はもともと智慧が優れている上に、慧観・慧厳・僧柔・慧次などといった大智者より教えを習い伝えたのみでなく、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわって法華経・涅槃経・華厳経の研究を重ねた。梁の武帝は彼を招き、宮中に寺を建てて光宅寺となづけ、この法師をあがめられた。
 法華経を講義すると、天より花が降り、釈尊在世のようであった。天監五年に大干ばつがあったので、この法雲法師を招いて法華経を講義していただいたところ、薬草喩品の「其雨普等、四方俱下(その雨は等しく四方すべてに降る)」という二句を講義なさった時、天より甘雨(恵みの雨)が降ってきたので、天子(皇帝)は、感動のあまりにその場で法雲を僧正に任命して、諸天が帝釈につかえ、万民が国王を恐れるように、法雲に自ら仕えられた。その上、ある人が「この人は過去の日月灯明仏の時から法華経を講義している人である」と夢に見たという。

 

 法華経の疏四巻あり。この疏に「この経いまだ十分ではない」とある。また法華経を「異の方便」と解釈している。正しく、法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれているのだ。この人の御義が、仏意に相叶ったからこそ、天より花も下り雨も降ったのであろう。このような見事な様子であったので、中国の人々が、確かに法華経華厳経・涅槃経には劣っているんだなと思っただけでなく、新羅百済・高麗・日本までこの疏(法雲の解釈)が広まって、大体同じ意見であったところに、法雲法師が死去されてわりとすぐに、梁の末、陳の始めに智顗法師という小僧が現れた。
 この人は、南岳大師という人の御弟子であったが、師の義に対しても不審に思ったのか、一切経の蔵に入って度々御らんになって、華厳経・涅槃経・法華経の三経を選び出し、この三経の中に殊に華厳経を講義された。この毘盧遮那仏を讃嘆する文章をわざわざ作って日々修行を積まれたので、世間の人は、「この人も華厳経を第一とお考えであるのか」と思っていたが、実際この人は、法雲法師が一切経の中に「華厳第一、涅槃第二、法華第三」と立てたことをあまりにも不審に思ったため、特に華厳経をご覧になっていたのである。
 (59頁3行目)こうして、一切経の中に「法華第一、涅槃第二、華厳第三」と見極められて、嘆かれるには、「如来の聖教は中国に伝えられたけれども、人々を利益することはなかった。かえって一切衆生を悪道に導いているのは、人師の誤りによるのである。例せば、国の支配者が東を西といい、天を地と言い出せば、民は皆そのように心得るのである後に身分の低い者が出現して、『汝等が西は東、汝等が天は地なり』と言っても信用しない上に、我が長の心に叶わんがために、今の人を罵ったり殴ったりするに違いない。どうしたらいいだろう。」と思われたけれども、そのまま黙っていてはいけないので、「光宅寺の法雲法師は謗法によって地獄に堕ちた」と強く叫ばれた。その時、南三北七の諸師、蜂のごとく蜂起し(一斉に騒ぎ出し)、からすのごとく烏合せり(寄り集まった)。
 智顗法師をば、頭をかち割るべきか、国から追放すべきかなど言ったので、陳の国王これをお聞きになり、南三北七の数人と智顗を一緒に召し合わせて、自分も列座して、彼らの法論をお聞きになったのである。

集まったのは、法雲法師の弟子等で、慧栄・法歳・慧曠・慧暅などといった僧正・僧都以上の人々百人余りであった。各々悪口を先とし、眉をあげ眼をいからかし、手をあげ鳴り物を鳴らす。対して、智顗法師は末座に座り、顔色を変ぜず言葉を誤ることなく、威儀しずかにして、諸僧の言を一々メモをとり、言葉ごとに反論した

このように相手に反論したところで、彼らを批判していうには、「そもそも法雲法師の御義に『第一華厳、第二涅槃、第三法華』と立てさせ給いける証文はいずれの経ぞ。はっきりした証拠となる文をお出しいただきたい」と責めたので、各々頭をうなだれ、顔色を失って一言の返事もなかった。
 重ねてせめていうには「無量義経に正しく『次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて』等云々。仏、我と華厳経の名をよびあげて、無量義経に対して『いまだ真実を顕さず』と打ち消された。法華経に劣っている無量義経に、華厳経はせめられている。どのように心得て、華厳経を一代第一とされたのであろうか。各々自分の師匠の味方をしようと思われるなら、この経文を打ち破って、これより勝れた経文を取り出して、師匠の御義を助けてみなさい」と責めたのである。
 また、「涅槃経を法華経より勝れるというのは、いかなる経文によるのか。涅槃経の第十四には華厳・阿含・方等・般若をあげて、涅槃経に対して勝劣は説かれていても、まったく法華経と涅槃経との勝劣は説かれていない。次上の第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣は明らかである。いわゆる、経文に『この経、世に出ずるは乃至法華の中の八千人の声聞が成仏の記別を受けることを得て大いなる菓実が実ったようなものである。秋に収穫し冬に蔵に収め、それ以上することがないようなものである』とある。経文明らかに諸経をば春夏と説かれ、涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれているけれども、法華経を秋に収穫して冬に蔵に収めた大菓実の位であり、涅槃経をば秋の末・冬の初めの落穂拾いの位と定めている。この経文は、涅槃経が自ら法華経には劣ると認めているものにほかならない。

 

法華経の文には『已(すで)に説き、今説き、当に説くべし』と申して、この法華経は前と同じ時期に説いた経々よりも勝れているのみならず、後に説かん経々にも勝っていると仏は定められたのである。すでに教主釈尊このように定められて、疑うべきではないけれども、我が滅後はどうなるんやろとご心配になられて、東方宝浄世界の多宝仏を証人に立てて呼ばれた。多宝仏大地よりおどり出でて『法華経は、皆これ真実なり』と保証し、十方分身の諸仏も重ねてお集まりになり、広長舌を大梵天に付け、また教主釈尊も同様に舌を伸ばされた。

その後、多宝仏は宝浄世界へ帰り、十方の諸仏は各々本土にお帰りになった後、多宝・分身の仏もいらっしゃらないところで、教主釈尊が涅槃経を説いて『涅槃経は法華経に勝る』と仰せになったならば、御弟子等は信じられるであろうか」と智顗法師が責めたので、日月の大光明が修羅の眼を照らすように漢の王の剣の諸侯の頸に当てられているように、(そこにいた人々は)両眼をとじ、下を向いてしまった。天台大師の御様子は、あたかも師子王が狐兎の前で吼えているようであった。鷹・鷲が鳩・雉(きじ)を責めているようであった。
 このような状況であったので、さては法華経華厳経・涅槃経よりも優れていたのだと中国一国に流布するのみならず、かえってインドにまで伝わって、「インドの大乗・小乗の諸論も智者大師の御義に勝ることはない。教主釈尊が二度現われたのか。仏の教えが二度現れた」と讃嘆されたのである。


 その後、天台大師も御入滅になった。陳・隋の世も代わって唐の世となった。章安大師も御入滅になった。天台の仏法次第に廃れたところに、唐の太宗の御宇に玄奘三蔵という人が、貞観三年に始めてインドに入り同十九年に帰国したが、インドの仏法を尋ね尽くして法相宗と申す宗をもたらした。
 この法相宗天台宗と水火のように相いれない。しかし、天台の御覧にならなかった深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして「法華経一切経には勝れたれども、深密経には劣る」という。しかしながら、天台は御覧にならなかったので、天台の末学等は智慧が浅かったせいだろうか、そうかもしれないと思った。

また太宗は、賢明な王であった。玄奘への帰依は浅くはなかった。いうべきことはあったけれども、世の常として、権威をおそれて言い出す人はいなかった。法華経の理解を覆して「三乗こそ真実であり・一乗しかないというのは方便である・衆生の素質は五つに分かれている」といったことは、当時の人々にとっては(万人成仏の可能性を否定されたので)つらいことであった。

 

インドから伝わったとはいうものの、インドの外道が中国にわたったのであろうか。「法華経は方便、深密経は真実」といったので、釈迦・多宝・十方の諸仏の誠言もかえって虚しくなって、玄奘・慈恩こそが当時の生身の仏(生き仏)になってしまった。


 その後、則天皇后の御宇に、前に天台大師にせめられた華厳経に、また重ねて新訳の華厳経がわたってきたので、先の怨みを晴らそうとして、新訳の華厳経をもって天台に責められた旧訳の華厳経をたすけて、華厳宗という宗を法蔵法師という人が打ち立てた。この宗は、華厳経を「根本法輪」、法華経をば「枝末法輪」といった。南北は「一華厳、二涅槃、三法華」、天台大師は「一法華、二涅槃、三華厳」。今の華厳宗は「一華厳、二法華、三涅槃」と言っている。
 その後、玄宗皇帝の御宇に、インドから善無畏三蔵が、大日経蘇悉地経を伝えた。金剛智三蔵は、金剛頂経を伝えた。また金剛智三蔵の弟子がいて、不空三蔵という。この三人は、インドの人で、種姓も高貴な上に、人がらも中国の僧ににず、法門もよくわからないものの、後漢より今にいたるまでなかった印と真言という事相を加えていて立派だったので、天子(皇帝)が礼拝し、万民も掌を合わせて敬った。

 

〈感想〉

色々ありましたね~でも、37章あるうちのまだ10章しか進んでないです。しかも今まで略してるところも所々ありました。今回はもはや故事やたとえ話だけではないところも多く書いてしまった。法門に関する歴史的な話も捨てがたい。誰のせいで法華経が見下されたのか、はっきりしとこやないか!って感じですよね。

 

こんなん、ほんとに墓の前で朗読したんやろか。何時間かかったんやろって思ってしまいます。誰か墓苑に参ったときに朗読してみますか・・・・!!

 

報恩抄はもうこの辺で置いときましょうか。

誰に相談してるねん。(笑) 

年末やし、今年は報恩抄で終わりそうな気がする。

とりあえずもう少し続けるか。(あーーしんど、眠たい)

最近ほんま眠たくなることが多くて困ります。頭が働かない。思考停止。今日は閉店ガラガラです。