(現代語訳 報恩抄 77頁8行目)(第10章の途中からです)
この人々(善無畏三蔵ら三人の三蔵のこと)の主張として「華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内で、釈迦如来の説法の範囲である。今の大日経等は大日法王(如来)の勅言である。彼の経々は民の万言、この大日経は天子(皇帝)の一言である。【皇帝の一言が民衆の万の言葉より勝っているといいたいらしい】華厳経・涅槃経等は、大日経にはしごを立てても及ばない【・・・ほどの低い教えだと】。ただ法華経だけが大日経に似ている経である、とはいうものの、彼の経(法華経)は釈迦如来の説であり、民衆の正しい言葉である。この大日経は天子(皇帝)の正しい言葉である。言葉は似ているけれども、人柄(説いている仏の品性・風格)は雲泥の差がある。譬えば、濁水の月と清水の月のようなものである。月の影は同じでも、水に清濁の違いがある」と。【大日経の方が水が澄んでいるといいたいらしい】
このことについて追究し真偽を明らかにする人はいなかった。諸宗皆落ち伏して(屈服して)真言宗に賛同するようになった。善無畏・金剛智の死去の後、不空三蔵はインドに帰り、菩提心論(真言の優位性を説いている。不空の自作であろうと大聖人はいわれている)という論書を中国に伝えて、いよいよ真言宗は盛んになった。
ただし、妙楽大師という人がいた。天台大師よりは二百余年の後の人であるが、智慧かしこき人で天台の解釈によく通じておられたので、「天台の解釈の趣旨からすれば、後に伝わった深密経・法相宗、またはじめて漢土(中国)に立てられた華厳宗、大日経・真言宗に対しても法華経は勝れているということになる。それにもかかわらず、これまでの天台宗の人々は、あるいは智恵が及ばないとか、あるいは人を恐れているとか、あるいは時の王の権勢を恐れているとかいう理由で、言わなかったのか。このままでは、天台の正義(正しい主張)はまもなく失われてしまう。
またこれらの諸宗は、陳・隋の時代以前の南三北七の邪義をも上回るほどの悪である」と思い、三十巻に及ぶ注釈書を造られた。いわゆる弘決・釈籤・疏記である。
この三十巻の書は、天台大師の書中で重複しているところをけずり、説明が不足しているところは補足しただけでなく、天台大師の御時にはなかったために、破折から逃れていたような法相宗と華厳宗と真言宗とを、一度に打ち砕かれた書である。
(11章86頁)
日本国には、人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、百済国より一切経・釈迦仏の像が渡ってきた。また用明天皇の御宇に、聖徳太子、仏法をよみはじめ、和気妹子と申す臣下を漢土につかわして、太子が前世に所持していたという一巻の法華経をとりよせて持経(常に手元に置いて読誦する経典)と定められた。その後、人王第三十七代に孝徳天皇の御宇に三論宗・華厳宗・法相宗・俱舎宗・成実宗が渡ってきた。人王四十五代の聖武天皇の御宇に律宗が伝わった。以上六宗である。孝徳天皇より人王第五十代の桓武天皇にいたるまでは十四代、百二十余年が間は、天台・真言の二宗はなかった。
桓武天皇の御宇に最澄と申す小僧がいた。山階寺(やましなでら=興福寺)の行表(ぎょうひょう)僧正の御弟子である。法相宗を始めとして六宗を習いきわめた。けれども、仏法をいまだ極めたとは思えなかったので、華厳宗の法蔵法師が造った起信論の疏(じょ=注釈書)を見ると、そこに天台大師の註釈が引用されていた。この注釈書にこそ何か特別なことが書いてあるようであったが、この国に渡っているか、まあるいは、いまだ渡っていないのか不審であったので、ある人に尋ねたところ、その人は次のように言った。「大唐の揚州竜興寺の僧・鑑真和尚は、天台の末学、道宣律師の弟子である。天宝年間の末に日本国にわたり小乗の戒を弘通したけれども、天台の御釈を持ってきていながら広めなかった。人王第四十五代聖武天皇の時代のことである」と。
「その書を見たい」と最澄がいったので、取り出だしてお見せしたところ、一度御らんになって生死についての迷いが消えた。この書をよって六宗の心を究明したところ、一つ一つが邪見であることがわかった。たちまち誓願を立て、「日本国の人、皆謗法の者の支援者なのか。天下は必ず乱れるであろう」と思って、六宗を批判されたので、七大寺・六宗の碩学(すぐれた学僧)たちは蜂のように一斉に騒ぎ出して、京都にいる僧は烏のように寄り集まって、天下一同皆騒ぎ出した。七大寺・六宗の諸人等は、悪心が強盛になった。
ところが、去ぬる延暦二十一年(802年)正月十九日に天皇が高雄寺に行幸されたとき、七寺の碩徳十四人、即ち、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等十有余人を最澄と召し合わして議論させた。
華厳・三論・法相等の人々、各々自分の宗の元祖と同じことを主張した。最澄上人は六宗の人々の主張を一つ一つ書き付けて、本経・本論ならびに諸経・諸論に照らし合わせて責めたので、六宗の人々は一言も答えず、まるで口が鼻のようになってしまった。天皇は驚かれて、くわしくお尋ねになり、重ねて勅宣を下して十四人を責められたので、天皇の仰せに従うという謝表を献呈した。
その書には、「七大寺、六宗の学匠は、初めて至極(仏法の究極の教え)を覚った」とある。
また「聖徳太子が仏法を広めてより以降、今に二百余年の間、講義された経論はその数多く、互いに、理を争ったけれど、その疑いはいまだに解決していない。しかもこの最も深遠な円宗(法華経をよりどころとする宗派、=天台宗)が広くしめされたことはなかった」とある。
また「三論・法相の長年にわたる論争は、氷のごとく解け、晴れ晴れとしてついに明らかなることは、なお雲霧を披(ひら)いて三光(太陽・月・星)を見るようなものである」と言っている。
最澄和尚は、十四人の義(法門)を判定して次のようにいっている。「六宗の人々はそれぞれ法華経を一巻ずつ講義した。説法の声を深い谷にまで響かせて、主人も客もともに三乗の路を徘徊し、法門の旗を高い峰に翻したところ、長老も幼稚の者も、三有の結を摧破す(欲界・色界・無色界の煩悩を打ち砕いた)。それでもまだ歴劫修行の軌道を改めず、大白牛車と門の外にあると言われた牛車とを混同している。どうして初発心の位を無事に昇り、※阿から荼までの四十二字の法門を火宅の中で悟ることができようか」と。
(※サンスクリットを表記する際の四十二文字を音写するときの漢字で、最初と最後の文字。般若経・華厳経などでは、四十二字になぞらえて、修行の位を定めていて、阿字が菩薩の最初の位である初住にあたり、最後四十二番目の荼字が妙覚(仏)の位を表す。)
広世(=和気弘世)・和気真綱の二人の臣下は、「霊山の妙法を南岳に聞き、総持の妙悟を天台山に闢く。一乗の妙法が権教に妨げられていることを嘆き、三諦の法門が世にまだ顕わされていないことを悲しむ」と言った。
また十四人は「善議たちは、牽かれて(過去世での縁にひかれて)幸運な世に生まれ合わせ、乃ち稀有のお言葉に接することが出来た。過去世の縁が深くなければ、どうして聖世に託せんや(このような素晴らしい時代に生まれることができただろうか)」といった。
この十四人は、華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑑真等の漢土・日本の元祖等の法門を、瓶は変わっても中にある水は一つである。ところが十四人が、それぞれの邪義をすてて伝教の法華経に帰伏した上は、末代のだれ人が「華厳・般若・深密経等は法華経に勝れている」ということができるだろうか。
小乗の三宗はまた彼ら大乗の三宗の人々が学ぶべきものでもある。大乗の三宗が破れた以上は、沙汰のかぎりではない(論ずるまでもない)。ところが、今でも詳しい事情を知らない者は、六宗はいまだ破られていないと思っている。譬えば、目の不自由な人が天の太陽や月を見ることができず、耳の不自由な人が雷の音を聞くことができないために、天には太陽や月がない、空には音がないと思うようなものである。
(以上11章の最後まで)
〈感想〉
(最近文字を大きいままにしています。不都合あったらコメントしてくださいね。文字を小さくすると文字色が全部黒くなったので、大きいままにしています。)
報恩抄、御書全集の拡大版御書で何頁か数えたら37頁ありました。
撰時抄も37頁でした。観心本尊抄17頁。
開目抄上24頁、下28頁。
いや~こんな長い御書、新版御書ではないので、句読点あんまりなくて37頁。
新版御書だと50頁ほどになります。
ほんまに墓前で読めたんか~心配になりますね。
(またいうてる!)
全部は読んでないやろ、という私の勝手な想像です。
こんなすごい御書よく保管してくれてたもんです。
現代の私たちが読めるなんてすごい。
現代語訳はすっかり御書の原形を留めないくらい、わかりやすく書きかえられているところも多々ありますが、できたら御書と見比べて読んだらいいと思いますね。
日本人やからわかる大聖人様の生の言葉。
素敵としか言いようがない。素晴らしい。
意味がわかったら、御書のまま何度も読みたいですね。
死んだら絶対大聖人に会いにいきます。なんで小声(小文字)やねん!(笑)