今日、youtubeから配信したのですが、12月の大白蓮華の池田先生の講義に白米一俵御書が載っていてびっくりしました。よかったら、お聞きください。
弘安期に書かれた御書です。
〈現代語訳〉
白米一俵・さといも一俵・こうのり一籠、わざわざ御使いの方に託して送ってくださいました。
人には二つの財(たから)があります。一つは衣、もう一つは食です。経典には「有情は食によって住す」とあります。つまり、この文の意味は、生きとし生ける者は衣と食によって世に生きる、ということです。
魚は水に住み、水が拠り所になります。木は地の上に立ち、地を財とします。人は食によって生命が保たれ、食を財とします。
命というものは、すべての財の中で第一の宝です。「三千世界に満ちている財も、身命に替えられるものはない」と説かれている通り、三千大千世界いっぱいの財があったとしても、命も絶えてしまいます。
ですから、命は灯火のようなもの、食は油のようなものです。油が尽きてしまえば灯火は消え、食がなければ命は尽きてしまいます。
すべての神や仏をうやまい礼拝するとき、その初めの句には「南無」という文字を置きます。では、この「南無」とはどういう意味かといえば、「南無」とはインドの言葉です。中国や日本では「帰命」と言います。
帰命というのは、「自分の命を仏にささげる」という意味です。人はそれぞれ、身の丈に応じて妻子・家族・領地・金銀などを持つ人もいれば、財を持たない人もいます。しかし、財があってもなくても、命という財宝に勝るものはありません。
だからこそ、昔の聖人・賢人と呼ばれる人々は、命を仏にささげたことで仏となったのです。
いわゆる、雪山童子という方は、自分の身を鬼に差し出して八字の教えを習いました。薬王菩薩という方は、ひじを焼いて法華経に供養しました。我が国でも、聖徳太子は手の皮をはいで法華経を書写し、天智天皇という国王は、薬指を焼いて釈迦仏に供養しました。これらは皆、賢人・聖人のことなので、私たち凡夫にはとてもできることではありません。
しかし、仏になるということは、凡夫であっても志という文字を心得て仏になることができるのです。では、この志とは何か、詳しく考えてみれば、それは、観心の法門です。では観心の法門とは何かといえば、たった一つしか持たない衣を法華経に供養することが、身の皮をはぐような供養となるのです。飢えているときに、これを食べなければ今日生き長らえないという一つの食物を、仏に供養することが、すなわち命を仏にささげることなのです。
これは、薬王が腕を焼いた行ないや雪山童子が身を鬼に与えた行ないに、少しも劣らない功徳があるのです。聖人にとっては「事供養」、凡夫にとっては「理供養」という、止観の第七、観心の檀波羅蜜という法門なのです。
まことの道は、世間のあらゆる働きの中にあります。『金光明経』には「もし深く世法を理解すれば、それがそのまま仏法である」と説かれ、『涅槃経』には「一切世間の外道の経書は、実はすべて仏説であって、外道の説ではない」と仰せられています。妙楽大師は、、法華経第六巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」という文に照らし合わせてこういわれています。
つまり、前に説かれた二つの経の心は、深いとは言っても、いまだ考えが浅くて、法華経には及ばないため、世間の法を仏法に寄せて理解させる立場を取っています。しかし法華経は違います。法華経では「世間の法が、そのまま仏法の全体である」と釈されているのです。
爾前経では「心から万法が生じる。たとえば、心は大地のごとし。草木は万法のごとし、と言っています。しかし法華経はそうではありません。心すなわち大地であり、大地すなわち草木なのです。
また爾前経では「心の澄んださまは月のようであり、心の清らかさは花のようだ」と説きます。しかし法華経はそうではありません。「月こそ心よ、花こそ心よ」と説く法門なのです。。
このことからお分かりください。。白米は、ただ白米ではありません。
すなわち命そのものなのです。