御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

四菩薩造立抄 987頁 58歳御作 (講義録17巻)

富木常忍に与えられた御消息。

富木常忍法華経本門の久成の教主釈尊と四菩薩が造立される時期について質問したのに答えて、末法がその時であり、それを顕す人が必ず出現することを明かし、仏法の上から見れば、法華経の行者である大聖人は世界第一の富める者であると宣言されています。

さらに末法法華経本門の時だからと言って迹門を捨てよとは言ってないと述べておられます。

最後に三位房の死去について触れられています。

通解を読むと内容がわかりやすい御書ですが、御書そのままで読むとどうかな・・・

 

少しずつ御書と現代語訳を書きます。

白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫文給び候、今に始めざる御志言を以て宣べがたし何れの日を期してか対面を遂げ心中の朦朧を申し披や。

白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫文をいただきました。今始まったことではない御供養等の志に対して言葉では言い尽くせない感謝をしています。いつか対面して心に積もる色々な思いを申し上げようと思ってる、と言われています。

 

 一御状に云く本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべし、と兼て聴聞仕り候いき。然れば聴聞の如くんば何の時かと云云、

富木常忍の質問の確認をされています。本門の釈尊をつくり、脇士に地涌の四菩薩を造立すると言われるならば、その時ははいつかと聞いていましたね、と。

 

夫れ仏・世を去らせ給いて二千余年に成りぬ、其の間・月氏・漢土・日本国・一閻浮提の内に仏法の流布する事・僧は稲麻のごとく法は竹葦の如し、然るに・いまだ本門の教主釈尊並に本化の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し。三朝の間に未だ聞かず、日本国に数万の寺寺を建立せし人人も本門の教主・脇士を造るべき事を知らず。

仏滅後二千余年になる。その間、インド、中国、日本、世界中に仏法が流布し、僧は稲や麻のように、法門は竹や葦のように繁多である。しかし、いまだに本門の教主釈尊と本化の菩薩を造って本尊とした寺は一か所もない。三国の中でいまだ聞いたこともない。日本国に数万の寺々を建立した人々も本門の教主と脇士を造るべきことを知らない。

上宮太子・仏法最初の寺と号して四天王寺を造立せしかども、阿弥陀仏を本尊として脇士には観音等・四天王を造り副えたり、伝教大師延暦寺を立て給うに中堂には東方の鵞王(がおう)の相貌(そうみょう)を造りて本尊として久成の教主・脇士をば建立し給はず、南京七大寺の中にも此の事を未だ聞かず、田舎の寺寺以て爾なり、

聖徳太子は仏法が日本に渡って最初の寺として四天王寺を建てたけれども、阿弥陀仏を本尊、脇士には観音等、四天王を造り副えた。伝教大師延暦寺を建てられたが、中堂には東方の鷲王(薬師如来)の相貌を造って本尊とされ、久遠実成の教主と脇士は建立されなかった。奈良の七大寺の中にもいまだ聞いたことがない。否かの寺々も同様である。

かたがた不審なりし間・法華経の文を拝見し奉りしかば其の旨顕然なり、末法・闘諍堅固の時にいたらずんば造るべからざる旨分明なり、正像に出世せし論師・人師の造らざりしは仏の禁を重んずる故なり、若し正法・像法の中に久成の教主釈尊・並びに脇士を造るならば夜中に日輪出で日中に月輪の出でたるが如くなるべし、

 あれこれ不審であったので、法華経の文を拝見すると、その旨が明らかである。即ち末法・闘諍堅固の時に至らなければこの本尊を造立してはならない旨が明瞭である。正像二千年の間に出世した論師・人師が造立しなかったのは仏の禁(いましめ)を重んずるゆえである。もし、正法・像法の中に久遠実成の教主釈尊と脇士を造るならば、夜中に日輪が出、日中に月輪が出現したようなものである。

 末法に入つて始めの五百年に上行菩薩の出でさせ給いて造り給うべき故に正法・像法の四依の論師・人師は言にも出させ給はず、竜樹・天親こそ知らせ給いたりしかども口より外へ出させ給はず、天台智者大師も知らせ給いたりしかども迹化の菩薩の一分なれば一端は仰せ出させ給いたりしかども其の実義をば宣べ出させ給はず、但ねざめの枕に時鳥の一音を聞きしが如くにして夢のさめて止ぬるやうに弘め給い候ぬ、

 末法に入って初めの五百年に上行菩薩が出現されて造立されるべきであるゆえに、正法・像法年間の四依の論師、人師は言葉にも出されなかったのである。竜樹・天親こそ心の中で知っておられたが、口に出して外に説くことはなかった。天台智者大師も心には知っておられたが、迹化の菩薩の一分であるから一端はもらされたが、その実義は述べられなかった。ちょうど寝覚めの間際にホトトギスの一声を聞いたように目が覚めて夢が途切れてしまったように述べられたのみであった。

 

夫れより已外の人師はまして一言をも仰せ出し給う事なし、此等の論師・人師は霊山にして迹化の衆は末法に入らざらんに正像二千年の論師・人師は本門久成の教主釈尊並に久成の脇士・地涌上行等の四菩薩を影ほども申出すべからずと御禁ありし故ぞかし。

 それ以外の人師は一言も仰せられていない。これらの論師、人師は霊山にして正像二千年に出現する迹化の衆に、末法になるまでは本門久成の教主釈尊、並びに久成の脇士、地涌上行等の四菩薩のことを影ほども申し出してはいけない、と厳しく禁(いましめ)られたかたである。

 

 今末法に入れば尤も仏の金言の如くんば造るべき時なれば、本仏・本脇士造り奉るべき時なり、当時はその時に相当れば、地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん、まずそれ程に四菩薩を建立し奉るべし、もっとも今は然るべき時なりと云云、されば天台大師は後の五百歳遠く妙道にうるおわんと慕い、伝教大師は正像稍過ぎおわって末法はなはだ近きに有り、法華一乗の機今正にこれその時なりと恋いさせ給う、

末法に入って仏の金言の通りであれば、本仏(釈迦)並びに本脇士を造立し奉るべき時である。今はまさにその時にあたっているので、本化地涌の菩薩もやがて出現されるであろう。まず、その時こそ四菩薩を建立し奉るべきである。もっとも今はその時である。それゆえ天台大師は法華文句巻一で「後の五百歳遠く妙道にうるおわん」と末法を慕い、伝教大師は「正像やや過ぎ終わって末法はなはだ近きにあり、法華一乗が弘まるのは今まさにこれその時である」と恋慕されている。

 

日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり、是れ時の然らしむる故なりと思へば、喜び身にあまり感涙押へ難く教主釈尊の御恩報じ奉り難し、恐らくは付法蔵の人人も日蓮には果報は劣らせ給いたり天台智者大師・伝教大師等も及び給うべからず、最も四菩薩を建立すべき時なり云云、

 日蓮は世間的に見れば日本第一の貧しい者であるけれども、仏法の上から論ずると一閻浮提第一の富める者である。これは末法という時のしからしむる故であると思うと、喜びは身にあまり、感涙抑えがたく教主釈尊の御恩は報じ奉りがたい。おそらくは付法蔵の人々も日蓮より果報は劣っておられるし、また天台智者大師、伝教大師等も及ばないであろう。今こそ、四菩薩を建立すべき時である。

  問うて云く、四菩薩を造立すべき証文之れ有りや、答えて云く涌出品に云く「四の導師有り一をば上行と名け二をば無辺行と名け三をば浄行と名け四をば安立行と名く」等云云、問うて云く後五百歳に限るといへる経文之れ有りや、答えて云く薬王品に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。

問うていう、四菩薩を造立すべきという証文はあるのか。答えていう、涌出品にこうある、「四人の導師がいて、一人目を上行と名づけ、二人目を無辺行と名付け、三人目を浄行と名付け、四人目を安立行と名付ける」

問うて言う、後五百歳に限るという経文はあるのか。答えて言う。同じく薬王菩薩本事品第23に「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶することがない」とある。 

一御状に云く大田方の人人一向に迹門に得道あるべからずと申され候由・其の聞え候と是は以ての外の謬なり、御得意候へ本・迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし、

 

一、御状によれば、太田方の人々が今末法においては一向に本門のみに得道があって、迹門には得道がない、と言われているそうであるが、これはもってのほかの誤りである。よく心得ておかれたい。本門と迹門の浅深、勝劣、与奪、傍正は仏法流布の時と機根とによるのである。

 一代聖教を弘むべき時に三あり機もつて爾なり、仏滅後・正法の始の五百年は一向小乗・後の五百年は権大乗・像法一千年は法華経の迹門等なり、末法の始には一向に本門なり一向に本門の時なればとて迹門を捨つべきにあらず。

法華経一部に於て前の十四品を捨つべき経文之れ無し、本迹の所判は一代聖教を三重に配当する時・爾前・迹門は正法・像法或は末法は本門の弘まらせ給うべき時なり、

一代聖教を弘める時に正像末の三時がある。機根もまたこれらの三時によって異なる。仏の滅後、正法の始め五百年間は一向小乗教の弘まるべき時であり、正法の後半五百年は権大乗、像法の一千年は法華経迹門等が流布する時である。末法の始めには一向に法華経の本門が弘まる時である。ただし一向に本門の時であるからと言って迹門を捨てるべきではない。法華経一部において前の十四品を捨てよという経文はない。本門迹門の判別は一代聖教を三重に配当する時、爾前と迹門とは正法と像法の時に弘まり、末法の時は本門が弘まるべき時である。

 

今の時は正には本門・傍には迹門なり、迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり、

 今の時は正には本門であり、傍には迹門である。ゆえに迹門無得道といって迹門を捨てて、本門ばかりを信ずる人々は、いまだ日蓮の本意の法門を知らないのであって、もってのほかの僻見である。

私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし、此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり、総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし、其れさへ尚人人の御心中は量りがたし。

 大事な法門を曲げて考える人はひとえに天魔波旬がその身に入り替わって、他人と自身とともに無間地獄に堕としてしまうのである。愚かなことである。この法門は長年あなたに申し含めてあるように、人々にも披露されるとよい。総じて日蓮の弟子といって法華経を修行する人々は日蓮のようにしなさい。そうするならば釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹も必ず守護されるであろう。そうであるのに大田方の人々はどうしたのであろう。心中量りがたい。

  一日行房死去の事不便に候、是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ、身の所労いまだきらきらしからず候間省略せしめ候、又又申す可く候、恐恐謹言。

一、日行房が 死去されたとのこと、かわいそうに思う。この身延の山で法華経を読み、南無妙法蓮華経と唱えて、願わくは日行房を釈迦、多宝、十方の諸仏が霊山浄土へ迎え取らせてほしいとお願い申し上げた。我が身の病気もいまだ快くないから、他は省略する。また後日申し上げることにする。恐恐謹言。
 

弘安二年五月十七日 日 蓮花押
 富木殿御返事