2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧
普門品五箇の大事第一 「無尽意(むじんに)菩薩」の事 普門品第二十五の発起衆である無尽意菩薩についての御義口伝です。 御義口伝に云わく、「無尽意」とは、円融の三諦をあらわす。「無」とは空諦、「尽」とは仮諦、「意」とは中道である。「観世音」とは…
第二 「肉髻(にっけい)」「白毫(びゃくごう)」の事 この品の儀式に当たって、釈尊が肉髻の光明を放ち、眉間白毫相の光を放って東方百八万憶那由佗恒河沙等の諸仏の世界を照らした。その肉髻白毫とは何かという問題を、観心の立場から示されたのである。 …
第一 「妙音菩薩」の事 御義口伝に云わく、「妙音菩薩」とは、十界の衆生のことをさす。「妙」とは、不思議。「音」とは、一切衆生の吐くところの語言音声、妙法の音声である。三世常住の妙音なのである。【過去・現在・未来にわたって常住する妙音なのであ…
第五 「諸余怨敵、皆悉摧滅(しょよおんてき、かいしつさいめつ=諸余の怨敵は、みな摧滅す)」の事 先の文に続いて「汝今すでに能く諸の魔賊を破し、生死の軍(いくさ)を壊(え)し、諸余の怨敵皆悉(ことごと)摧滅せり」との文に対する御義口伝である。 …
第三 「離一切苦・一切病痛、能解一切生死之縛(一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解く)」の事 御義口伝に云わく、法華の心は煩悩即菩提・生死即涅槃である。「離」「解」の二字は、この法華の心に背くものである。したがって観心の仏法で…
第一 「不如受持此法華経、乃至一四句偈(この法華経の乃至一四句偈を受持するにはしかず)」の事 これは薬王品第二十三の「もしまた人あって、七宝をもって三千大千世界を満てて、仏、および大菩薩、辟支仏、阿羅漢に供養せん。この人の所得の功徳も、此の…
嘱累品三箇の大事第一 「従法座起(じゅうほうざき=法座より起つ)」の事 御義口伝に云わく、「起」とは、塔中の座を起って塔外の儀式なり。三摩の付嘱有るなり。三摩の付嘱とは、身・口・意の三業、三諦、三観と付嘱したもうことなり云々。 <語句> 塔中…
第八 「畢竟住一乗○是人於仏道 決定無有疑(畢竟して一乗に住す○この人は仏道において、決定して疑いあることなけん)」の事 【ここは神力品第二十一で、仏が上行等の菩薩に向かい偈を説いて「無量の菩薩をして、畢竟(ひっきょう)して一乗に住せしめん、是…
第六 「娑婆、是中有仏、名釈迦牟尼仏(娑婆、この中に仏有し、釈迦牟尼仏と名づけたてまつる)」の事 【ここは、神力品第二十一で、十神力の第七、空中唱声のところの文である。即ち、諸天が歓喜して「此の無量無辺百千万億阿僧祇の世界を過ぎて国有り、娑…
(全554頁17行目)問うていう、経に「難解難入」と説かれている。世間の人、この文を引いて「法華経は機に叶わず」といっているのは、道理であると思われるが、どうだ。 答えて云わく、根拠のないことだ。そのわけは、この経をよくわかっていない人のいうこ…
(日蓮大聖人御書講義第9巻p220) ただし、心あらん人は世間のことわりをもって推察せよ。大旱魃のあらん時は大海が先にひるべきか、小河が先にひるべきか。仏これを説き給うには、「法華経は大海なり観経・阿弥陀経等は小河なり。されば、念仏等の小河…
長い御書ですが・・・新版御書で20頁ほどありますね~ 7頁ずつくらいに区切って3回で載せても、一回が長い! 頑張って、わかりやすく語訳(通解など)を入れていきますね。 (048) 法華初心成仏抄 建治3年(ʼ77) 56歳 今回も問答形式のお手紙になってます…
第五 「地皆六種震動。其中衆生○衆宝樹下(地は皆六種に震動す。その中の衆生○衆の宝樹の下)」の事 御義口伝に次のように仰せである。「地」とは、国土世間である。「其中衆生」とは、衆生世間である。「衆宝樹下」とは、五陰世間である。(この文に)一念…
第四 「満百千歳(まんひゃくせんざい=百千歳を満たす)」の事 御義口伝に云わく、「満」とは法界を満たすということである。「百」は百界をあらわし、「千」は千如を意味する。一念三千の哲理を、「満百千歳」と説くのである。一時も、一念も「満百千歳」…
第二 「出広長舌(すいこうちょうぜつ=広長舌を出だしたもう)」の事 御義口伝に云わく、「広」とは迹門、「長」とは本門、「舌」とは中道法性である。十法界は、皆ことごとく妙法の功徳であるから「広」といい、竪に高いところから「長」というのである。…
【神力品第一の講義より、神とは諸天善神、というところで、この原理を法華初心成仏抄には次のように示されている。】 新版御書703頁 全集557頁 およそ妙法蓮華経とは、我ら衆生の仏性と、梵王・帝釈等の仏性と、舎利弗・目連等の仏性と、文殊・弥勒等の仏性…
神力品八箇の大事第一 「妙法蓮華経如来神力」の事 【天台は】文句の十に云わく「『神』は不測(ふしき=不可思議)に名づけ、『力』は幹用(かんゆう=木の幹のような力強い働き)に名づく。不測(ふしき)は則(すなわ)ち天然の体(=無作の三身)深く(…
御義口伝講義より 常不軽品三十箇の大事 第二十九「法界礼拝住処の事」 <講義> 法界を理解するためには電波に例えてみるとわかりやすい。例えば、この同じ部屋の中の、同じ空間に、同時に国内のあらゆる放送の電波もあれば、世界各国から放送された、電波…
第二十九 法界は礼拝の住所の事 御義口伝に云わく、法界に立って礼拝するのである。法界とは広いというのでもなく、狭いというのでもない。総じていうなら、法とは(十界三千の)諸法である。界とは境界(生命活動の場)である。 地獄界から仏界まで、各々界…
第二十六 慈悲の二字は礼拝の住所の事 御義口伝に云わく、不軽礼拝の行は「皆当作仏(皆当に作仏すべし)」と教えているので慈悲である。既に(上慢の四衆によって)杖木・瓦石をもって打擲されても、「而強毒之(しかも強いてこれを毒す)=(しいて折伏)…
第二十四 蓮華の二字は礼拝の住所の事 御義口伝に云わく、蓮華とは因果の二法をあらわす。悪因あれば悪果を感じ、善因あれば善果を感ずる。 ※内証には汝等三因仏性の善因がある。事に顕す時は善果と成って「皆当作仏(皆当に作仏すべし)」すべしと礼拝した…
第二十二 法性は礼拝の住所の事 御義口伝に云わく、不軽菩薩、法性真如の三因仏性たる南無妙法蓮華経の二十四字に足立って(足場として=二十四字を根本に)、無明の上慢の四衆を拝したのは、衆生に内在する仏性を礼拝したのである。 <感想> どんな悪者に…
第二十 「我本行菩薩道(我は本菩薩の道を行ず)」の文は礼拝の住所の事 御義口伝に云わく、「我」とは、本因妙の時(の姿)を指すのである。「本行菩薩道(もと、菩薩の道を行ず)」の文は、不軽菩薩の振舞いをいう。これを不軽菩薩の礼拝の住所とするので…
第十八 開・示・悟・入は礼拝の住所の事 御義口伝に云わく、開・示・悟・入の四仏知見を住所とするのである。しかるあいだ、方便品のこの文を礼拝の住所というのである。これは(天台大師は)「内に不軽のあらわ解を懐(いだ)く」と(文句の十に)釈してい…
第十七 不軽菩薩の礼拝の住所の事 これについて、十四箇所の礼拝の住所の事これ有り 不軽菩薩の礼拝の住所については十四か所ある。 御義口伝に云わく、まず、第一に礼拝の住所とは、多宝塔中の礼拝である。その故は、塔婆とは五大をもって形成するところの…
第十六 此(この)品の時の不軽菩薩の体の事 御義口伝に云わく、「不軽菩薩」とは十界の衆生である。三世常住の礼拝の行を立てるのである。吐くところの語言は妙法の音声であり(南無妙法蓮華経を唱えるのである)。 (極端な例が)獄卒が杖を取って罪人を呵…
第十五 「於如来滅後(如来滅して後において)」等の事 【常不軽品において、仏が得大勢菩薩に向かって「得大勢、当に知るべし、この法華経は大いに諸の菩薩摩訶薩を饒益(にょうやく)して、能く阿耨多羅三藐三菩提に至らしむ。この故に諸の菩薩摩訶薩、如…
第十三 「常不値仏、不聞法、不見僧(常に仏に値わず、法を聞かず、僧を見ず)」の事 御義口伝に云わく、この文は、不軽菩薩を軽賤するが故に、三宝を拝見せざること二百億劫、地獄に堕ちて大苦悩を受けたと述べている。 今、末法に入って日蓮等の類い南無妙…
第十一 「於四衆中説法、心無所畏(四衆の中において法を説くに、心に畏るるところ無し)」の事 【ここは、常不軽品第二十において、仏が不軽菩薩について「斯の諸仏の法の中において、受持読誦して、諸(もろもろ)の四衆のためにこの経典を説くが故に、こ…
第九 「言、是無智比丘(「この無智の比丘」と言う)」の事 御義口伝に云わく、この文は法華経の明文である。上慢の四衆が、不軽菩薩を「無智比丘」と罵詈している。「凡有所見(およそ見るところ有る)」の菩薩を「無智」ということは、第六天の魔王の所為…