2021-07-01から1ヶ月間の記事一覧
述作の年代も宛名も書かれていない御消息です。その内容から駿河国の門下、高橋六郎兵衛入道の没後、その家族・縁者に送られたものであると考えられます。 別名を「智慧亡国書」と言います。 その内容から建治二年(1276年)以後の御書と推定され、高橋六郎…
弘安三年、五月二十六日、身延で著され、富木常忍に与えられた御消息です。別名を「難信難解法門」といいます。 富木常忍が法華経法師品の難信難解の文について、質問を寄せたのに対して、問答形式で答えています。法華経以外の諸経は仏の随他意の教えである…
文永12年(1275年)3月10日、日蓮大聖人が54歳の時に身延で著され、曾屋教信と大田乗明の二人にあてられた御消息です。別名を五綱抄ともいい、重要な教義が漢文体で記されています。 初めに教・機・時・国の違いによって弘めるべき法が異なることを明かし、次…
方便品の長行を書写して差し上げた。先に差し上げた自我偈に添えて読まれるように。 この経(法華経)の文字は一字一字、ことごとく生身の妙覚の仏である。しかしながら、われら凡夫は肉眼なので、ただ、文字と見るのである。たとえば餓鬼道のものは恒河を火…
別名「法華真言違目」 一か月前の十月六日に蒙古軍が九州に襲来しています。 大聖人の予言が的中して、自界叛逆難・他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が起こったのは、真言宗が法華宗に勝るという仏法の邪見によるのであるとされ、真言が法華宗を破ったため…
御書を拝読する前に曾谷教信について書いておこうかと思います。 今まで富木常忍の御書を沢山読みましたが、曾谷教信は結構近くにいて、ともに戦った同志のようなのです。 曾谷教信は下総郡八幡庄曾谷郷(千葉県市川市曽谷)の領主で、幕府に仕えていた人。 …
今日の聖教・読者の声の欄に載りましたね~ うれしかったです。 沢山の同志が喜んでくれました。一番早くて7時ごろ支部女からlineもらって、うれしかったけど、以前私がもってたブロックのブロック員さんが教えてくれたと言われました。それもまたうれしかっ…
御義口伝は今こそ広宣流布実現の時を得て初めてその真義が世に流布するものと確信する。 立正安国論、皆開目抄、観心本尊抄等は古来幾多の先師や学僧によって、解釈され、講演され流布されたが御義口伝のみは誰も本格的に手をつけられなかった。その理由は創…
1275年(建治元年)十一月二十三日に富木常忍に対して書かれた御書です。 銭一貫文、厚綿の白小袖一枚、筆十管、墨五丁を頂いた。身延山はご存じのように冬は嵐が激しく、降り積もる雪はなかなか消えない。極寒のところなので昼夜の修行も薄着では耐え難く、…
本抄は建治元年(1275年)九月二十八日、富木常忍からの衣の布と単衣が供養されたことに対し、書かれたお手紙です。富木常忍の妻の御供養に対して返事を出されたものと考えられている。この年の二月には常忍の母が帷を作って御供養しており、富木常忍がこう…
文永三年正月六日、当時滞在されていた故郷の安房・清澄寺で著され、頂いたのは安房国天津にいた伯母御前であろうと推定されています。 はじめてに題目を唱えることに、いかに絶大な功徳があるかが明かされています。特に「仏道に入る根本は信をもって本とす…
止暇断眠御書という別名があるので、よくわかる人はピーンとくる一節があると思います。最後のところで「我が門家は夜は眠りを断ち、昼は暇(いとま)を止(とど)めて之を案ぜよ、一生空(むな)しく過ごして万歳悔ゆること勿(なか)れ」と言われています…
今日のお昼ごはんを食べたあと、急に思いついたのです。 私が富木尼御前になって話をするっていうのが、一番いいかもしれないと。 今回、久しぶりに地区で座談会御書を頼まれたので、毎日どうやって面白く感動的に、 皆にわかってもらえるか、って考えていっ…