第二 「肉髻(にっけい)」「白毫(びゃくごう)」の事
この品の儀式に当たって、釈尊が肉髻の光明を放ち、眉間白毫相の光を放って東方百八万憶那由佗恒河沙等の諸仏の世界を照らした。その肉髻白毫とは何かという問題を、観心の立場から示されたのである。
御義口伝に云わく、この二つの相好は「孝順師長(師長に孝順す=親に孝行し、師匠を尊敬する)」という目上の人に従うという心から起こっている。究極は法華経(御本尊)を持つことが一切の孝養の最頂(最高)なのである。
また云わく、【人間生命のありのままにの姿に当てはめるならば、】この「白毫」とは父の婬(精子)であり、「肉髻」とは母の婬(卵子)である。赤白二渧(せきびゃくにたい)、この父母の淫を、今経(法華経)にいたって「肉髻」「白毫」の二相と顕したのである。
また云わく、「肉髻」は随縁真如の智であり、「白毫」は不変真如の理である。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、これらの相好を具足するのである。
我らが生命の始めは一切が赤色であり、肉髻の相である。死して後の白骨は白毫相である。生の始めは盛んに細胞分裂をしながら、その特質を明らかにしていく。したがって、この肉髻の赤色は、随縁真如の智をあらわしている。死して後の白骨は、もはや変化することがない。ゆえに不変真如の理をあらわす。【このことは甚深の法門であるがゆえに安易に他人に語るべきではない】秘すべし、秘すべし云々。
第三 「八万四千七宝鉢(八万四千の七宝の鉢)」の事
御義口伝に云わく、この文は妙音菩薩、雲雷音王仏に奉ったところの供養の鉢である。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱える者は、八万四千の鉢を三世の諸仏に供養していることになる。「八万四千」とは、我ら凡夫の八万四千の塵労(じんろう)であり、南無妙法蓮華経と唱えるところに八万四千の法門と顕れるのである。法華経の文字は、開結二経を合して、八万四千となる。
また云わく、「八」とは、八苦である。「四」とは、生老病死である。「七宝」とは、頭上の七穴(眼、鼻、口、耳の七つの穴)であり、「鉢」とは、智器(智慧の器)をさす。御本尊を信じ、妙法の智水を受持するのがこの「鉢」の本義であると確信すべきである。
<講義より>
我々が御本尊に題目をあげ折伏するのは、日蓮大聖人に対する最高のご供養になる。 「百千枝葉、同じく一根に趣くが如し」で大聖人に対するご供養は三世十方の全ての仏に供養したと同じことになるのである。したがって今御本尊を受持し、自行化他の信心に励んでいる学会員が、偉大なる福運を積まない道理がない。信心の結果として得た人格、にじみ出てくる福運、それは無上宝珠不求自得である。
人生の途上において世間との戦いにおいて生ずる一切の煩悩、苦労は、南無妙法蓮華経と唱える時、全部智慧となり指導力となって、現れてくるとの御文である。