正嘉二年に書かれたものとされる、そうです。
上下巻に分かれている御書だと上巻にあるのは法門の難しい内容のが多いですよね。
御書を初めて読み始めるなら、下巻の御消息からの方がわかりやすいと思いますが、この御書はその難しい法門のとても大事なところです。本文も難しく、通解も難しいので要約だけにしときます。
「日蓮大聖人の御書を読む」から引用しますと、
[要約]
わが身が三身即一の本覚の如来であることを説いた法華経方便品の十如是の文のうち、始めの三如是は次のように配立できる。
三身 三徳 三諦
如是相 応身 解脱 仮諦
如是性 報身 般若 空諦
このはじめの三如是の三諦を本とし、尾張の七如是を三諦の末として、これが皆わが身一身の理として具わるので本末究竟して等しいことになる。わが身の三諦は山人如来であり、三身即一の本覚の如来であることを覚知することこそ即身成仏である。
上中下の三根の人たちがいるが、特に下根の人は一生の内に本覚の如来を顕せるようにすべきである。そして、そのために題目を唱えることが肝要である。妙法蓮華経はわが身の体性であるから、唱題によってわが身が三身即一の本覚の如来と顕われるのである。このことを信ずる者は必ず一生のうちに成仏できるのであり、この人こそ如説修行の人である。
上根・中根・下根が気になるので、御書と通解を載せます。
御書:
此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす、中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり、下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く只今までみつる所の生死・妄想の邪思ひがめの理はあと形もなくなりて本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて日来賤と思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり、秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり。
通解:
仏道に入る人にも上中下の三根の異なりはあっても、同じく一生のうちに仏を顕すことができるのである。上根の人は聞いたその場で覚りを極めて顕すのである。中根の人は、もしは一日、もしは一月、もしは一年のうちに顕すことができる。下根の人は仏法の理解に進展がなく、行き詰まったままであり、しかも一生のうちに限られたことなので、臨終の時に至って、諸々の見ていた夢も覚めてうつつになるように、今まで見ていた所の生死・妄想の間違った考えや偏見は跡形もなくなって本覚のうつつの覚りにかえって法界を見るならば、皆寂光の極楽であって、日ごろ賎しいと思っていた我が身が、三身即一身の本覚の如来となるのである。秋の稲には早(わせ)と中と晩(おく)の三つの稲があっても、いずれも一年のうちに収穫することができるように、これも上中下の差別があっても、同じく一生のうちに諸仏如来と一体不二であると思い合わせることができるのである。
続きで最後のところの御書も載せます:
妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば、我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり。されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば、我が身やがて法華経にて、法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければ、やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり。かく覚(さとり)ぬれば無始より已来、今まで思いならわしし・ひが思いの妄想は昨日の夢を思いやるが如く、あとかたもなく成りぬる事なり。是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば法華経を覚(さとり)て如法に一部をよみ奉るにてあるなり。十遍は十部・百遍は百部・千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり。かく信ずるを如説修行の人とは申すなり、南無妙法蓮華経。
通解:
妙法蓮華経の体がまことにすばらしいことは、どのような体のことであろうかと尋ね出してみれば、我が心性が八葉の白蓮華であることである。それゆえ我が身の体性を妙法蓮華経というのであるから、妙法蓮華経は経の名ではなくて、もはや我が身の本体であると知るならば、わが身がそのまま法華経であって法華経は我が身の本体を呼び顕してくださった仏の御言葉であるので、我が身が即ち三人即一身の本覚の如来となるのである。このように覚るならば、無始よりこのかた今日まで思い習わしてきた間違った考えの妄想は昨日の夢を追い払うように、跡形もなくなるのである。このことを信じて一遍でも南無妙法蓮華経と唱えるならば法華経を覚って、法華経一部を如法に読誦することになるのである。十編は十部を、百遍は百部を千遍は千部を如法に読誦することになるのである。このように信ずる人を如説修行の人というのである。南妙法蓮華経。
講義:(最後のところ)
ここでは本抄の結論として、妙法蓮華経(法華経)の法体が勝れている所以については、我ら衆生の心性(心の奥にある不変の本性)にある八葉の白蓮華を顕したものであるからである、と言われています。「八葉の白蓮華」とは我ら衆生の胸間にある肉団心であり、肉団心とはその形が八弁の肉葉からなり、具体的には心臓と肺臓のかたちのことである、という。この場合の白蓮華は衆生の不変の身体(体性=生命)の象徴としての意味であることはいうまでもない。
妙法蓮華経の法体が、衆生の心性としての八葉の白蓮華(心臓・肺臓)のことを顕しているゆえに、妙法蓮華経とは単に経の名ではなく、我ら衆生の身体であると悟ればわが身がそのまま法華経となる。そして、法華経という経典は我ら衆生の不変の身体(生命)を呼び顕してくださった仏の金言であるから、法華経を信じて題目を唱えることによって我らはわが身が三身即一身の本覚の如来であることを覚知することができる。
よ(中略)要するに、胸間の八葉の白蓮華というのは、我ら衆生自身が妙法蓮華経の当体であることを強く意識せしめるために説かれたものと言える。
(私の感想)
どうでも信心がよくわからなくて自分は成仏できるんかな~なんて思ってるような人でも、題目もあげてないしな~大丈夫かな~という人も、亡くなるときには成仏すると言われてるので、謗法さえ犯してなければ安楽に死ねるのではないかと思った次第です。でも、学会員が幸せになっていればいつでも成仏してると思ってていいのではないかと思います。たとえ人から見て大変そうな状態であっても、本人が成仏してるってことありますからね。これだけは見た目で言えないことですよね。
ただ仏の境涯にも色々ありそうで、上中下根と大聖人も言われてるのがすごいなと思いました。折伏されてすぐ入る人は上根なんですね、やっぱりねって感じ。もともと仏縁があるのよね。できればそんな人と出会わないかしらと祈ってしまったり(笑)