御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

三世諸仏総勘文教相廃立 ④ 全560頁 新707頁

第六章 有教無人の権を説く所以明かす

<本文>

釈尊は)この前三教では仏になれないという証拠を説き置いて、末代の衆生に仏法の法理を智慧をもって領解させたのである。
 九界の衆生は、一念の無明という眠りの中で、生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ、夢の是非に執着して、冥(くら)きより冥きに入る(さまよっている)。それゆえに、如来は我らが生死の夢の中に入って、顚倒(てんどう)の衆生と同じ境涯に立ち、夢の中の言葉を使って、夢の中にある衆生を誘い導き、夢の中の善悪の差別を説いて、次第に誘引されるのであるが、夢の中の善悪の事は重なりあって様々に無量無辺であるので、まず善のことについて上・中・下を立てた。

いわゆる声聞・縁覚・菩薩の三乗の法がこれである。それぞれに上根・中根・下根の別があるので、三三九品となる。

このように説きおわって後に、また上上品の根本善を立てられたのを、上・中・下の三三九品の善というのである。しかし、皆ことごとく九界生死の夢の中の善悪の是非である。今これを総じて邪見であり、外道であるとなすのである〈捜要記の意〉。
 この上に、また、「上上品の善心は本覚の寤の法理だから、これを善の根本である」と説き聞かせた時に、夢の中の善悪の悟りの力によって、寤の本心の実相の法理をはじめて聞知することができたのである。

この時に仏は「夢と寤との二つは、虚事と実事との二つの事であるけれども、心法はただ一つである。眠りの縁にあえば夢である。眠りが去れば寤の心である。したがって、心法はただ一つなのである」。開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり〈これは別教の中道の理なり〉。


 この故に、いまだ十界互具・円融相即を顕していないので、成仏した人はいないのである。故に、三蔵教から別教に至るまで、四十二年の間の八教は、皆ことごとく方便の教えであり、夢の中の善悪なのである。ただしばらくこれを用いて衆生を誘引するために用いられた支度(したく=準備)・方便なのである。
 この権教の中にも、分々に皆ことごとく方便と真実があり、権実の法が欠けていないのである。四教の一々にそれぞれ【有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の】四門があって差別がないのである。また、言葉もただ同じ言葉であり、文字も異なることはない。これによって言葉に迷って権実の差別を分別できない時、仏法が滅びるというのである。

 

<講義より>

では、成仏できるという教えや言葉のみあって(有教)、実際には成仏する人がいない(無人)権教は、すなわち前三教は、何のために説かれたのであろうか。

此の点に関して、法華経に入らせるための方便として説かれたものであると述べておられる。

つまり、生死の夢の中にいる九界の衆生を夢から覚ませるために、仏自ら九界の夢の中に入り、夢の中の言語で説いたのが前三教の教えであり、それはどこまでも法華経という真実の悟りへ誘引するための方便であったのである。

 

 

<感想>

以下の講義は非常に興味深かったです。

釈尊がなぜ長らく爾前経を説かねばならなかったのか、夢の中にいるような衆生の目を覚まさせるため、多くの爾前の経典(前三教)を説いたということですが、まあ、わかるような気もしないではないが、長すぎない?悠長すぎませんかって突っ込みたくなる。

80歳で死ぬとわかっていて、ほな72歳までは方便で夢見る衆生に付き合って、だんだん覚醒するように仕向けていって、72歳からはいきなり本気出して真実の教えを説くでって予定立てておられたいうことです。

途中で自分が死ぬとは思ってなかったんやろうね。絶対80歳まで生きて妙法を説くって確信があったんやね。

 

現代でも自分の寿命は予測不能です。80歳までのライフプランを立てたとしても、途中で何が起こるかわからんもんね。地震津波、台風、豪雨、河川の氾濫、竜巻、交通事故、あげくは戦争とか、世界中で安心して寿命を全うできる場所は少ないでしょうか。日本も地域によっては自然災害の不安がある。癌にならんよう気をつけてもなってしまうこともある。癌はもはや治せない病気ではなくなりつつあるのか、どうなのか。まだ、亡くなる場合だって多い病気ですもんね。(話が脱線したかな)

釈尊、死ぬまでのプランでちゃんと涅槃経まで説いて死ぬってわかってたんやったら、ほんますごいとしか言いようがないです。