第二十一章 一大事因縁を説いて勧戒
<本文>あ
三世の諸仏は、これを「一大事因縁」と考えられて、世間に出現されたのである。「一」とは、中道であり、法華経である。「大」とは、空諦であり、華厳経である。「事」とは、仮諦であり、阿含経・方等経・般若経である。
(ここで私はなんでや~って引っ掛かりましたが・・・皆さんどうでしたか?大が空諦は知ってるとして、華厳経!?事が仮諦はわかる。仮諦が阿含・方等・般若、なんでや~って思いますよね。調べてみるけど、わかるかな~)(そして、調べましたが、「大とは華厳経なり」「事とは中間の三昧なり」(716頁)と御義口伝に書かれているとしか、わかりませんでした。まあ、気にせんと次行こ)
以上は、一代聖教の上に立てた総の三諦である。
これを悟り知る時、仏果を得るので、出世の本懐、成仏の直道なのである。
「因」とは、一切衆生の身中に総の三諦があって常住不変であるので、これを総じて因というのである。
「縁」とは、三因仏性はあるといっても、善知識の縁にあわなければ、これを悟らず、知らず、顕れない。善知識の縁にあえば、必ず顕れる故に、縁というのである。(善知識って御本尊のことですね)
しかるに、今、この一と大と事と因と縁との五事和合して、あい難き善知識の縁(御本尊)にあって※五仏性を顕すことに、何の滞りもないのである。
<語句の説明>
※五仏性(正因・了因・縁因・果性・果果性のこと)(正・了・縁は省きますね。果性とは菩提の果。果果性とは涅槃の果、つまり菩提の智をもって涅槃を証するので果の果になるので果果性という)
<本文の続き>
春の季節が来て風雨の縁にあえば、無心の草木も皆ことごとく萌え出でて花を生じ、咲き栄えて世間にあう気色(様子)である。
秋の時節に至って月光の縁にあえば、草木皆ことごとく実が成り熟して、一切の有情を養育し、寿命を延べて長く養い、終に成仏の徳用を顕すのである。
これを疑い、これを信じない人があろうか。無心の草木すら、なおもってかくのごとし。いかにいわんや人倫においてをや。(原文がかっこいいのでそのままにしときます)
我らは迷いの凡夫であるといっても、一分の心もあり、理解もでき、善悪も分別するし、時節を思い知ることもできる。
ところが、宿縁に促(うなが)されて、生を仏法流布の国土に受けたのである。善知識の縁にあえば、因果を分別して成仏すべき身であるが、善知識にあうとしても、なお草木にも劣って、身中の三因仏性を顕さずに、黙止する理由があるであろうか。
この度必ず必ず生死の夢を覚まして、本覚の寤(うつつ)に還って生死の紲(きずな)を切るべきである。
今より以後は、夢の中の法門を心にかけてはならない。三世の諸仏と(わが)一心とを和合して妙法蓮華経を修行し、障り無く開悟すべきである。自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて曇りはないのである。三世の諸仏の勘文はこの通りである。秘すべし、秘すべし。(ことさら秘密にすべきである。)
弘安二年己卯十月 日 日蓮 花押
<講義から>
一大事因縁の一大事について
まず、一とは一実相をさし、三諦のなかでは中諦にあたり、一代聖教のなかでは法華経にあたる。
大とは一実相の性が広博であることを示し、三諦の中では空諦にあたり、一代聖教のなかでは華厳経にあたる。
さらに、事とは諸仏がこの世に出現する具体的な儀式をさしているゆえに、三諦のなかでは仮諦にあたり、一代聖教のなかでは、阿含部・方等部・般若部の諸経にあたるのである。
この「一大事」が表す内容はそのまま「一代の総の三諦」である。この一代の総の三諦が「出世の本懐」・「成仏の直道」なりといわれているのは、一代聖教全体が衆生を成仏させるために説かれたものであり、そのすべてを説くことが仏の出世の本懐であるというのである。ただし、その中に法華経が円教、他は不完全な権教であることを含んでの仰せである。
次に「一大事因縁」の因とは一切衆生の生命の中に総の三諦、即ち一代聖教に説かれた生命の法理が本来、ことごとく具わっていることである。しかし、これも善知識の縁にあわなければ悟りあらわすことができない。一大事因縁の五事が和合することこそ、五仏性を顕現して成仏していく根本の法則となるのである。御義口伝の御文に「円融の三諦は何物ぞ、いわゆる南無妙法蓮華経是なり」と仰せのように、御本尊を受持し題目を唱えることが、五事の和合となるのである。
本抄全体の結論として、ここでは三世の諸仏の「一大事因縁」という重要な法門を取り上げられて、法華経を信ずる門下に対する勧誡めを説いて締めくくられている。
「この度必ず必ず」とのお言葉の中に人間として生を受け、仏法流布の国土に生まれ、善知識にあうことのできた「今生においてこそ」という意味が込められている。そのためには「今より以後は夢中の法門を心がけてはいけない」「三世の諸仏と心一つになって妙法蓮華経を修業し、開悟、成仏していきなさい」と促されている。
また、自行と化他の二教の差異は三世の諸仏の勘文として、鏡に照らして曇りないことを再度確認されるとともに、これが本来、深秘の法門であることを「秘すべし秘すべし」の結語に込められて、本抄全体を結ばれている。
<感想>
大聖人様の御書でよく「秘すべし、秘すべし」って出てきますよね。大事な法門だし、大聖人しかわかっておられないことを、他宗の者が盗んで(法盗人といいますね)あたかも自分が悟ったことのようにレクチャーすることがあってはならんぞということでしょうね。テレビもネットもない時代だから、聞いたこと、知りえた話を別のところで言ったところで誰も知らんやろし、誰にも攻められんやろという邪宗のくそ坊主のしそうな悪だくみや。大聖人が注意するのもわかるわ。いつの時代もそういう悪人はおるさかいな。今の日本でも題目に力があるからって、南無妙法蓮華経を唱えさせる偽宗教は多いです。日蓮大聖人の顕された御本尊に題目を唱えないとだめなんだけどな~わかってない人が多いわ。
さて、長かった総勘文抄ですが、やっと終わりました。
次の御書考えときます。法戦の時に読むべき御書を探してこようかな。
#三世諸仏総勘文教相廃立