四条金吾が身延の大聖人に鎌倉の極楽寺および御所の焼失を報告したことに対する御返事。
大果報の人をば大火は焼かざるなり。
一切の幸不幸は、本質的には人間の生命の因果のあらわれである。
法華文句にある王舎城の例をあげて、民衆の福徳薄きゆえに火災に遭い、須達の話には貪欲が強いから火災に見舞われるとある。
律と念仏を混合したような邪法で、鎌倉の上下から生き仏のように敬われていた極楽寺良観を徹底的に揶揄しながら破折されている。
極楽寺が焼けて地獄寺になったと、愚痴の法師らが智慧ある者の言葉を用いない結果であると。
外に現れた現象は内なる生命状態の表象。来世の姿もそのまま現世のなかに様々な姿を現していると言える。生命の奥深くにあるものが来世に続いていくから。
祈りが叶わないのは弓が強いのにつる(弦)が弱かったり、太刀や剣があっても使う人が臆病であったりするのと同じである。
この御書で四条金吾の奥さんのことを法華経を疑ってなくても信心が弱いということを言われている。金吾が人に憎まれながらも信仰をつらぬいているように、同じように折伏して頑張りなさいと奥さんにこまごまと話すよう言われている。法華経に敵対するものに対してとわり(遊女)ほど憎いと思っていないのでしょうとしても言われている。