金吾の奥さんは33歳の厄年はどうしたらいいんでしょう?って聞いたんだと思う。
題目を唱えていけば、33の厄も33の福と転ずることができるから大丈夫だよ、という御書です。
面白かったのは、「日蓮は法華経以外の一切経を見るときには、女性にはなりたくないと思う」と言われていることろ。ある経には女性を地獄の使いと定められ、ある経には大蛇と説かれ、曲がれ木のようだと説かれたり、仏種を炒ってしまった者と説かれている。仏法だけでなく外典でもこの世の中に女性と生まれなかったことを一つの楽しみと挙げているものがある。(栄啓期の三楽)
一切の人に憎まれても、女性って最愛の人に可愛いと思われたなら本望だから、
「一切の人は憎まばに憎め、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏、ないし梵王・帝釈・日月等にだにも不憫と思われ参らせなば、何かくるしかるべき。法華経にだにもほめられたてまつりなば、なにかくるしかるべき」っていう一節は若い時から大好き。
「この経を持つ女人は一切の女人に過ぎたるのみならず、一切の男子にこえたりとみえて候。」っていう一節も女であることを全肯定してもらってるようで嬉しい。