御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

聖愚問答抄  全474頁 新544頁 文永5年頃の御述作

本抄の愚人とは日ごろ外典を学び風月に心を寄せる仏教に無知な凡夫。下巻に愚人が自らの身分を明かして「我は弓箭に携わり兵仗をむねとして未だ仏法の真味を知らず」(499頁)とあるので、武士を対象とした御書と言っていいでしょう。本抄は御真筆がなく、全文がことごとく美文調したためられ、その文体が大聖人の常の御書と違い、内容的にも多少の問題があるとして、古来偽書とする説がある。しかし、他の御書を参照すれば明らかなように大聖人は和漢のさまざまな古典に通暁し、難易・情理・硬軟など機縁によって文章を使い分けておられるから、文体が優美であるからというだけで偽書ときめつけることはできない。

 

さて、私が感動した文学的な出だしのところを本文載せてから、通解を書きます。

 

御書本文:

 夫れ生を受けしより死を免れざる理(ことわ)りは賢き御門(みかど)より卑(いやし)き民に至るまで人ごとに是を知るといへども実に是を大事とし是を歎く者千万人に一人も有がたし、無常の現起するを見ては疎(うと)きをば恐れ親(したし)きをば歎(なげ)くといへども先立つははかなく留(とどま)るはかしこきやうに思いて、昨日は彼のわざ今日は此の事とて徒(いたず)らに世間の五慾にほだされて白駒(はくく)のかげ過ぎやすく、羊の歩み近づく事をしらずして、空しく衣食の獄につながれ、徒らに名利の穴にをち、三途の旧里に帰り、六道のちまたに輪回せん事、心有らん人誰か歎かざらん誰か悲しまざらん。

新版御書

夫れ、生を受けしより死を免れざる理は、賢き御門より卑しき民に至るまで人ごとにこれを知るといえども、実にこれを大事としこれを歎く者、千万人に一人も有りがたし。無常の現起するを見ては疎きをば恐れ親しきをば歎くといえども、先立つははかなく留まるはかしこきように思って、昨日は彼のわざ今日はこのこととて、いたずらに世間の五欲にほだされて、白駒のかげ過ぎやすく羊の歩み近づくことをしらずして、空しく衣食の獄につながれ、いたずらに名利の穴におち、三途の旧里に帰り六道のちまたに輪回せんこと、心有らん人、誰か歎かざらん、誰か悲しまざらん。

 

通解:

およそ生を受けた時から死を免れないという道理は、貴い御門から卑しい民に至るまで人は誰でも知っているけれど、まことにこれを嘆く者は千万に一人もいないのである。無常の死の現れ起こるのを見て、初めて今まで仏道に疎遠であったことを恐れ、世事にのみ親近していたことを嘆くけれども、先立った者ははかなく留まった者がすぐれているように思って、昨日はあの事、今日はこの事といって、徒に世間の欲望に縛られて、白馬の影が壁の隙間の向こうを一瞬によぎるように、歳月の過ぎるのは速く、屠所に引かれる羊の歩みのような自分の運命を知らないで、空しく衣食の牢獄につながれ、徒に名利の穴に落ち、死ねば三途の古里に帰り、生きては六道の巷に輪廻するであろう事、心ある人ならば誰が嘆かないでいられようか、誰が悲しまないでいられようか。

 

御書本文:
 嗚呼・老少不定は娑婆の習ひ会者定離は浮世のことはりなれば始めて驚くべきにあらねども正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに或は幼き子をふりすて或は老いたる親を留めをき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中さこそ悲しかるらめ行くもかなしみ留るもかなしむ、彼楚王が神女に伴いし情を一片の朝の雲に残し劉氏が仙客に値し思いを七世の後胤に慰む予が如き者底(なに)に縁(よ)つて愁いを休めん、かかる山左(やまがつ)のいやしき心なれば身には思のなかれかしと云いけん人の古事さへ思い出でられて末の代のわすれがたみにもとて難波のもしほ草をかきあつめ水くきのあとを形の如くしるしをくなり。

 

新版御書

ああ、老少不定は娑婆の習い、会者定離は浮き世のことわりなれば、始めて驚くべきにあらねども、正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに、あるいは幼き子をふりすて、あるいは老いたる親を留めおき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中、さこそ悲しかるらめ。行くもかなしみ、留まるもかなしむ。彼の楚王が神女に伴いし、情けを一片の朝の雲に残し、劉氏が仙客に値いし、思いを七世の後胤に慰む。予がごとき者、底に縁って愁いを休めん。「かかる山左のいやしき心なれば、身には思いのなかれかし」と云いけん人の古事さえ思い出でられて、末の代のわすれがたみにもとて、難波のもしお草をかきあつめ、水くきのあとを形のごとくしるしおくなり。

 

 

通解:

ああ、老少不定(ろうしょうふじょう)は娑婆世界の習い、会者定離(えしゃじょうり)は浮世の道理であるから、今初めて驚くべきではないけれども、正嘉の初めの災害で世を早く去った人のあり様を見ると、あるいは幼い子をふり捨てあるいは年老いた親を後にとどめ置き、まだ壮年の年齢で黄泉(よみじ)の旅に赴(おもむ)く心の中はさぞかし悲しかったであろう。行く人も悲しみ、とどまる人も悲しむ。かの楚王が巫山の神女と交わった情を一片の朝の雲に残し、劉氏(りゅうし)が仙女と契(ちぎ)った思いを七世の子孫を見て慰めとした。しかし私のような者は何によって愁いを休めよう。「こうした木こりのような卑しい心の者だから、身には愁いの添わぬように」と歌った古人のことさえ思い出されて、末代の人の忘れ形見にもと難波の藻塩草(もしおぐさ)をかき集め、筆の跡を形ばかりしるしおくのである。

 

御書本文:474頁12行~
 悲しいかな痛しいかな我等無始より已来無明の酒に酔て六道・四生に輪回して或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ或時は餓鬼・飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生・残害の苦みをうけて小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う、或時は修羅・闘諍の苦をうけ或時は人間に生れて八苦をうく生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり或時は天上に生れて五衰をうく、

 

新版御書

 

悲しいかな、痛ましいかな。我ら無始より已来、無明の酒に酔って六道四生に輪回して、ある時は焦熱・大焦熱の炎にむせび、ある時は紅蓮・大紅蓮の氷にとじられ、ある時は餓鬼の飢渇の悲しみに値って五百生の間飲食の名をも聞かず。ある時は畜生の残害の苦しみをうけて、小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる。これを残害の苦と云う。ある時は修羅の闘諍の苦をうけ、ある時は人間に生まれて八苦をうく。生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり。ある時は天上に生まれて五衰をうく。

 

通解:

なんと悲しく、また痛ましいことか。我等は無始以来、根本の煩悩の酒に酔って六道・四生に輪廻して、ある時は焦熱・大焦熱地獄の炎にむせび、ある時は紅蓮・大紅蓮の氷に閉じ込められ、ある時は餓鬼道の飢渇の悲しみにあって、五百生の長い間飲食の名を聞くことができない。ある時は畜生道の残害の苦しみを受けて小さいものは大きなものに吞まれ、短いものは長いものに巻かれる。これを残害の苦しみという。ある時は修羅道の闘諍の苦しみを受け、ある時は人間に生まれて八苦を受ける。生・老・病・死・愛する者と別離する苦しみ・怨み憎むものに会う苦しみ・求めて得られない苦しみ・五陰から生ずる身心の苦しみ等である。ある時は天上界に生まれて五衰を受ける。

 

御書本文:

此くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇るも会遇たる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく暗き事は狼眼に同じ、我を生たる母の由来をもしらず生を受けたる我が身も死の終りをしらず、嗚呼受け難き人界の生をうけ値い難き如来の聖教に値い奉れり一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし、今度若し生死のきづなをきらず三界の籠樊を出でざらん事かなしかるべし・かなしかるべし。

 

新版御書

かくのごとく三界の間を車輪のごとく回り、父子の中にも、親の親たる、子の子たることをさとらず。夫婦の会い遇えるも、会い遇いたることをしらず。迷えることは羊目に等しく、暗きことは狼眼に同じ。我を生みたる母の由来をもしらず、生を受けたる我が身も、死の終わりをしらず。
 ああ、受け難き人界の生をうけ、値い難き如来の聖教に値い奉れり。一眼の亀の浮き木の穴にあえるがごとし。今度もし生死のきずなをきらず、三界の籠樊を出でざらんこと、かなしかるべし、かなしかるべし。

 

通解:

このように三界の間を車輪のように廻り、父と子のなかであっても親は親であること、子は子であることを知らず、夫婦が巡り会えたのに巡り会えたことを知らず、迷っていることは羊の眼に等しく、道理に暗いことは狼の眼と同じである。自分を生んだ母の由来を知らず、生を受けた我が身も死の終わりを知らない。ああ受け難い人界の生を受け、値(あ)い難い仏の聖教に値い奉ったことは、一眼の亀の浮木の穴にあったようなものである。このたびもし生死のきずなを切らず、三界の籠を出られない鳥のようであったならば、どんなに悲しいことであろう、悲しいことであろう。

 

御書本文:

爰(ここ)に或る智人来りて示して云く、汝が歎く所実に爾(しか)なり、此くの如く無常のことはりを思い知り善心を発す者は麟角よりも希なり、此のことはりを覚らずして悪心を発す者は牛毛よりも多し、汝早く生死を離れ菩提心を発さんと思はば吾最第一の法を知れり志あらば汝が為に之を説いて聞かしめん、

 

新版御書

 ここに、ある智人来って示して云わく、汝が歎くところ実にしかなり。かくのごとく無常のことわりを思い知り、善心を発す者は、麟角よりも希なり。このことわりを覚らずして悪心を発す者は、牛毛よりも多し。汝早く生死を離れ菩提心を発さんと思わば、吾最第一の法を知れり。志あらば、汝がためにこれを説いて聞かしめん。

 

通解:

ここにある智人が来て諭して言う。あなたの嘆くことはまことにその通りである。このように無常の道理を思い知り、善心を起こすものは麒麟の角よりも稀である。この道理を覚らないで悪心を起こすものは牛毛よりも多い。あなたが早く生死の苦しみを離れ、菩提心を起こそうと思うのであれば、私は最大一の法を知っている。志があるならばあなたのためにこれを説いて聞かせよう。

 

新版御書

 その時、愚人座より起って掌を合わせて云わく、我は日来外典を学し風月に心をよせて、いまだ仏教ということを委細にしらず。願わくは上人、我がためにこれを説き給え。

通解:

その時愚人は座から起(た)って手を合わせていう、私は日ごろ外典を学び、詩歌の道に心をよせ、まだ仏教のことを詳しくは知らない。願わくは上人私のためにこれを説いてください。

 

 その時、上人の云わく、汝、耳を伶倫が耳に寄せ、目を離朱が眼にかって、心をしずめて我が教えをきけ。汝がためにこれを説かん。・・・・・・・・to be continued

 

ここから五重の相対のように低い教えを先に説くようです、まずは戒律の話が出てくる・・・

 

<感想>

さて、立正安国論を既に読まれた方は、聖人が一人、客人も一人だったから、この聖愚問答抄は最初少し戸惑うかもしれません。この御書では愚人一人に対して小乗教の律僧、念仏の居士、禅宗の修行者が次々と訪れ、前の宗派を批判し自宗に対する信仰を勧めるのです。そこが面白いところです。

 

聖愚問答抄は上下に分かれていますが、上には前段と後段の一部が含まれており、下には後段の残りの部分が述べられています。

 

前段では律僧・専修念仏の居士・真言の行者・禅の修行者が次々と愚人を訪れ前の宗派を破折しては自宗を勧めていく。

後段に入って諸宗の真偽に迷い、求道の旅に出て法華受持のまことの聖人に会う。

聖愚問答抄という題名は正しくはこれ以後の聖人と愚人の問答によってつけられている。聖人は諸宗をさして皆悪道に堕ちる業因になると諭し、ただ法華経のみが釈迦の出世の本懐であり、真実の経典であることを示して浄土宗と真言宗を破折する。ここまでが上巻。

 

下巻では禅宗を破折し終わり、次いで法華経こそ衆生成仏の直道であると示される聖人の言葉に愚人が次第に転迷開悟し、妙法五字に一切の功徳を含む題目の修行の正しい所以と、謗法破折の意義を了解して妙法に帰依していく次第を述べている。

 

以上ざっくりした内容の説明でおわりま~す。講義本では262頁もあって、読み返すのが大変なんで興味のある方は御書を読んでみてください。講義は第6巻下にあります。

 

愚人が段々高い教えに付こうとするのが面白いです。折伏もこんな素直な人にするならすぐ入会させてあげられるかも。ただ、私たちは一気に南無妙法蓮華経を説けばいいと思うのですが、それがわかる人が少ないのです。色んな比喩を使って相手にわからせていく方法を学びたいところです。