(全554頁17行目)問うていう、経に「難解難入」と説かれている。世間の人、この文を引いて「法華経は機に叶わず」といっているのは、道理であると思われるが、どうだ。
答えて云わく、根拠のないことだ。そのわけは、この経をよくわかっていない人のいうことだからである。法華より已前の経は解り難く入り難し。法華の座に来っては解り易く入り易しということなり。されば、妙楽大師の御釈に云わく「法華より已前は不了義なるが故に。故に難解と云う。即ち今の教にはことごとく実に入るを指す。故に易知と云う」文。この文の心は、法華より已前の経にては機つたなくして解り難く入り難し、今の経に来っては機賢く成って解り易く入り易しと釈し給えり、その上、「難解難入」と説かれたる経が機に叶わずば、まず念仏を捨てさせ給うべきなり、その故は、双観経に「難きが中の難きなり。この難きに過ぎたるは無し」と説き、阿弥陀経には「難信の法」と云えり。文の心は、この経を受け持たんことは難きが中の難きなり、これに過ぎたる難きはなし、難信の法であるということである。
問うていう。経文に「四十余年にはいまだ真実を顕さず」と云い、また「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず」と説かれているが、この文は、何をあらわしているのか、との問いが設けられている。
答えていう、この文の心は、釈迦仏一期五十年の説法の中に、始めの華厳経にも真実をとかず、中の方等・般若にも真実をとかず。この故に、禅宗・念仏・戒等を行ずる人は、無量無辺劫をば過ぐとも仏にならじという文である。
仏四十二年の歳月を経て後、法華経を説かれるには「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」と仰せられると、舎利弗等の千二百の羅漢、万二千の声聞、弥勒等の八万人の菩薩、梵王・帝釈等の万億の天人、阿闍世王等の無量無辺の国王、仏の御言を領解する文には、「我らは昔より来、しばしば世尊の説を聞きたてまつるに、いまだかつてかくのごとき深妙の上法を聞かず」と云って、我ら仏に離れることなく四十二年、多くの説法を聴聞してきたけれども、いまだこのような貴き法華経をばきいたことがないと言える。
これらの明文をば、いかが心えて世間の人は法華経と余経と等しく思い、そのうえ、「機根に合わないので、闇の夜の錦、去年の暦」などと言って、たまたま持つ人を見ては、賤(いや)しみ、軽しめ、悪(にく)み、嫉(ねた)み、口をすくめなどしている。しかしながら、これこそ謗法である。どうして往生・成仏できようか。必ず無間地獄に堕つべき者と思われる。
(全555頁18行目) 問うていう、およそ仏法を能く心得て仏意に叶える人を、世間にこれを重んじ一切の人はこれを貴む。ところが、当世法華経を持つ人々を、世こぞって悪み、嫉み、軽しめ、賤しみ、あるいは所を追い出だし、あるいは流罪し、供養をなすなど思いもよらず、怨敵のように、憎まれているのは、どう見ても心がけが悪くて、仏意にもかなわず、まちがって法を心得ているからであろう。経文にはどのように説かれているか。
答えていう、経文のごとくならば、末法の法華経の行者は人に悪(にく)まれるほど受持するのを、真実の大乗の僧とする。また経を弘めて人を利益する法師であるとする。人によく思われ、人の心にしたがって貴しと思われる僧を、法華経のかたきであり、世間の悪知識であると思いなさい。
この人を経文には、「猟師の目を細めにして鹿をねらい、猫の爪を隠して鼠をねらうようにして、在家の俗男・俗女の檀那にへつらい、いつわり、たぼらかすであろう」と説かれている。
その上、勧持品には法華経の敵人三類を挙げられているが、一つには、在家の俗男・俗女である。この俗男・俗女は法華経の行者を憎み、罵り、打ちはり、きり殺し、所を追い出だし、あるいは上へ讒奏して遠流し、なさけなくあだむ者である。
二つには、出家の人なり。この人は慢心高くして、内心には物も知らざれども、智者げにもてなして世間の人に学匠と思われて、法華経の行者を見ては怨み、嫉み、軽しめ、賤しみ、犬・野干よりも劣っていると人に言って嫌うように仕向け、法華経を我一人心得たりと思う者である。
三つに、は阿練若(あれんにゃ)の僧である。この僧は極めて貴い姿を形に顕し、三衣一鉢(さんねいっぱつ)を帯して山林の閑かなる所に籠もり居て、(釈尊)在世の(阿)羅漢のように諸人に貴まれ、仏のごとく万人に仰がれて、法華経を説のごとくに読み持ち奉る僧を見ては、憎み嫉んでいう、「大愚癡の者であり、大邪見の者である。すべて慈悲なき者で、外道の法を説いている」などというであろう。
上一人より仰いで信じられるから、それ以下の万人も仏にするように供養をなすであろう。法華経を教説のとおり読み持つ人は、必ずこの三類の敵人に怨まれるであろうと仏説かれている。
(556頁16行目) 問うていう、仏の名号を持つように法華経の名号を取り分けて持つべき証拠あるのか、どうか。
答えていう、経に云わく「仏は諸の羅刹女に告げたまわく『善きかな、善きかな。汝等はただ能く法華の名を受持せん者を擁護せん、福は量るべからず』と」説いている。この文の意は、十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給うを、大覚世尊はこれを讃めて「善きかな、善きかな。汝等、南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳、いくら程とも計りがたく、素晴らしい功徳である。神妙なり(立派なことである)」と仰せられた。これは我ら衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱えるべきであるという文である。
そもそも妙法蓮華経とは、我ら衆生の仏性と、梵王・帝釈等の仏性と、舎利弗・目連等の仏性と、文殊・弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解りの妙法と一体不二なる理を、妙法蓮華経と名づけたのである。故に、一度妙法蓮華経と唱うれば、一切の仏、一切の法、一切の菩薩、一切の声聞、一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神、乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、一切衆生の心中の仏性をただ一音に喚び顕し奉る功徳、無量無辺である。
我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉って、我が己心の中の仏性が南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れるところを仏というのである。
譬えば、籠の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるようなものである。空とぶ鳥が集まれば、籠の中の鳥も出でようとする。
口に妙法を呼べば、我が身の仏性も呼ばれて必ず顕れる。梵王・帝釈の仏性は呼ばれて我らを守る。仏菩薩の仏性は呼ばれて悦びをなす。したがって、「もし少しの間でも持つものがいれば、我は則ち歓喜する。諸仏もまた同様である」と説かれているのは、この心である。したがって、三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生皆成仏道の妙法というのは、これである。
これらの趣をよくよく心得て、仏になる道には、我慢・偏執の心なく、南無妙法蓮華経と唱えるべきである。
日蓮 花押