御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

薬王品得意抄 全1499頁 新524頁

文永二年(1265年)に南条兵衛七郎の夫人に与えられたと推定されている御消息です。年代もはっきりしていません。弘安三年や建治年間ではないかとする説もあります。

初めに法華経の中で薬王品の位置と役割を述べて、次に薬王品に説かれている大海の譬え、山の譬え、月の譬え、日の譬え、貧しきに宝を得る譬え等の譬喩によって、法華経が他の諸経に比べてどのように勝れているのかが明かされています。

さらに、薬王品で女人の往生が説かれた意義を明かし、女人不成仏を説いた爾前経と女人成仏を説いた法華経のどちらが真実であるかを、無量義経等の文を引いて明かし、法華経を取るべきであると教えられています。

この御書は以前読んだ時、どこにも線を引いてなくて、よく覚えていないので、さらっと終わりたいと思います。大体意味のわかるところはさらっとあんまり現代語にしなくてもいいかなと思っています。

(なり=である、と訳すことが多いので途中から訳すのを省きます。大体わかりそうなところは省きます)

 

薬王品得意抄 文永二年 四十四歳御作 上野時光妻に与える


 この薬王品の大意とは。この薬王品は第七の巻二十八品の中には第二十三の品である。この第一巻に序品方便品の二品が有る。序品は二十八品の序である。方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し、傍には菩薩や凡夫の作仏を明かしている。法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり、又涌出品は寿量品の序なり、分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代の凡夫の行ず可き様を・傍には方便品等の八品を修行す可き様を説くなり、然れば此の薬王品は方便品等の八品並びに寿量品を修行す可き様を説きし品なり。


 此の品に十の譬有り、第一大海の譬、先ず第一の譬を概略申しあげよう。此の南閻浮提に二千五百の河があり、西倶耶尼(さいくやに=四大州の一つ)に五千の河あり。総じて此の四天下に二万五千九百の河あり、或は四十里乃至百里・一里・一町・一尋等の河之有り、然りと雖も此の諸河は総じて深浅の事大海に及ばず、法華已前の華厳経阿含経・方等経・般若経・深密経・阿弥陀経・涅槃経・大日経金剛頂経蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経大日如来の所説の一切経阿弥陀如来の所説の一切経薬師如来の所説の一切経、過去・現在・未来三世の諸仏所説の一切経の中で法華経は第一なり。譬えば諸経は大河・中河・小河等の如し。法華経は大海の如し等と説くなり。

河に勝れたる大海に十の徳有り。一に大海は次第に深くなる。河は爾(しか)らず(=そうではない)。二に大海は死体を留めない、河はそうではない。三に大海は本(もと)の名字を失う、河はそうではない、四に大海は一味なり、河は爾らず、五に大海は宝等有り、河は爾らず、六に大海は極めて深し、河は爾らず、七に大海は広大無量なり、河は爾らず、八に大海は大身の衆生等有り、河は爾らず、九に大海は潮の増減有り、河は爾らず、十に大海は大雨・大河を受けて満ち溢(あふ)れることはない、河は爾らず。
 此の法華経には十の徳有り、諸経には十の失(とが)有り、此の経は次第に深く多くて、五十展転がある。諸経には一(一番に聞いても功徳はない)も無し、況や二三四乃至五十展転をや、河は深けれども大海の浅きに及ばず、諸経は一字・一句・十念等を以て十悪・五逆等の悪機を摂すと雖も、未だ一字一句の随喜五十展転には及ばざるなり。

此の経の大海に死屍を留めずとは、法華経に背く謗法の者は極善の人であっても、なお之を捨つ。ましてや悪人なる上、謗法を為さん者をや。たとえ諸経を謗ずと雖も法華経に背かざれば必ず仏道を成ず。たとえ一切経を信ずと雖も法華経に背けば、必ず阿鼻大城に堕つ、乃至(中略)第八には大海には大きな体の衆生がいる等と云うのは、大海には摩竭大魚(まかつだいぎょ)等大きい体の衆生がいる。無間地獄と申すは縦広八万由旬なり。五逆の者は無間地獄に堕ちて、一人で必ず充満する。この地獄の衆生は五逆の者であり大身の衆生なり。諸経の小河や大河の中には摩竭大魚はいない。法華経の大海には之がいる。

五逆の者が仏道を成ずるというのは是れ実には諸経に之無し。諸経に之が説かれていると言っても実際には未顕真実である。故に一代聖教をそらで覚えておられた天台智者大師の釈に云く、「法華経以外の他経は但菩薩に記して、二乗に記せず。乃至ただ善に記して悪に記せず、今経は皆記す等云云、私はしばらく之を省略する。

第二には山に譬えている。十宝山等とは、山の中には須弥山第一なり、十宝山とは一には雪山・二には香山(こうせん)・三には軻梨羅山(かりらせん)・四には仙聖山(せんしょうせん)・五には由乾陀山(ゆけんだせん)・六には馬耳山(めにせん)・七には尼民陀羅山(にみんだらせん)・八には斫伽羅山(しゃからせん)・九には宿慧山(しゅくえせん)・十には須弥山である。先の九山は諸経は諸山のようなものである。ただしその一つ一つに財がある。須弥山は衆財をそなえていて、その財に勝れている。

例せば世間の金の閻浮檀金(えんぶだんごん)に及ばないようなものである。華厳経の法界唯心(の法門)、般若の十八空(の法門)、大日経の五相成身(ごそうじょうしん)(の法門)、観(無量寿)経の往生より法華経の即身成仏勝れたるなり。須弥山は金色なり、一切の牛馬・人天・衆鳥等この山に近寄れば必ず本(もとの)色を失って金色になるのである。ほかの山はそうではない。一切の諸経は法華経に対すれば本の色を失うようなものである。たとえば黒色の物の日月の光にあえばその黒色を失うようなものである。諸経の往生成仏等の色は、法華経にあうと必ずその義を失うのである。

 第三には月に譬えている。衆星(諸々の星)は或は半里、或は一里、或は八里、或は十六里は過ぎない。月は八百余里である。衆星は光有りと雖も月に及ばず。たとえ百千万億乃至一四天下・三千大千・十方世界の衆星を集めても一つの月の光に及ばない。まして一つの星が月の光に及ぶわけがない。華厳経阿含経・方等・般若・涅槃経・大日経・観経等の一切の経を集めても法華経の一字に及ばない。

一切衆生の心中の見思・塵沙・無明の三惑、並に十悪や五逆罪等の業は暗夜のごとし。華厳経等の一切経は闇夜の星のごとし。法華経は闇夜の月のごとし。法華経を信ずれども深く信じない者は半月の闇夜を照すが如し。深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し。月無くして但星のみ有る夜には力の強い者や頑健な者などは歩いて行けても老骨の者(年老いたもの)女人などは歩いて行くことができない。満月の時は女人や老人なども、或は遊宴のため或は人に会うために歩いていくのは自在である。諸経には菩薩・大根性の凡夫はたとえ得道なるとも二乗・凡夫・悪人・女人乃至・末代の年老いてなまけおこたる無戒の人人は、往生成仏は確かではない。法華経はそうではない。二乗・悪人・女人等でさえ仏に成る。ましてや菩薩・大根性の凡夫が仏にならないわけがない。また月は宵よりも暁は光まさっている。春夏よりも秋冬は光がある。法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有ることになっている。

問うて云く証文はどこにあるか。答えていう。道理は顕然である。その上薬王品のそのあとの文に次ぎ下の文に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶させることはない」等云云、此の経文に二千年の後、南閻浮提に広宣流布すべきである、と説かれているのは、第三の月の譬えの意味である。この意味を根本伝教大師が守護国家章に解釈して云く「正法像法がだんだん過ぎ去って末法が非常に近くにある。法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」等云云、正法千年も像法千年も法華経の利益諸経に之れ勝れていよう。然りと雖も(しかしながら)月の光が春夏の正法像法の二千年よりも、末法の時という秋冬に至って光が勝るようなものである。
 第四の譬えは日の譬えである。星の中に月が出たときは星の光に対して月の光は勝っているけれども、未だ星の光を消すことはない。日中には星の光は消えるだけでなく、又月の光も奪って月は光を失ってしまう。爾前経は星の如く、法華経の迹門は月の如し。寿量品は日の如し。寿量品の時は迹門の月でさえ未だ及ばない、ましてや爾前の星が及ぶわけがない。夜は星がでている時や、月が出ている時も、人々は仕事をしない。夜が明けてから必ず人々は仕事をなす。爾前や迹門でもなお生死を離れ難いのである。本門寿量品に至つて必ず生死を離れることができるのである。ほかの六つの譬えについては省略する。この外に又多くの譬えがこの品にある。その中に「向こう岸に渡ろうとしたときに、船を得たようなものである」と此の譬えの意は生死の大海には爾前の経は或は筏、或は小船である。生死の此岸より生死の彼岸には付くと言っても、生死の大海を渡り、極楽の彼岸には着きがたい。例えば世間の小船等が筑紫より関東に至り、鎌倉より江の島なんどへと、着いても唐土へは至らない。唐船は必ず日本国より中国へに至るに支障がないようなものである。又「貧きに宝を得たるが如し」等いうのがある。爾前の国は貧国なり。爾前の人は餓鬼なり。法華経は宝の山なり。人は富裕な人なり。

問うて云く、爾前は貧国という経文はどうなっているのか。答えて云く授記品に云く「飢えたる国からやってきて急に大王の膳にあったようなものである」等といっている。女人の往生成仏が説かれている場面は経文にはつぎのようにある。「もし如来の滅後・後の五百歳の中に若し女人有つて是の経典を聞いて、説の如く修行せばここに於て命終して即ち安楽世界、阿弥陀仏の大菩薩や大衆に囲まれて住する処にいって、蓮華の中の宝座の上に生じる」等と。
 質問していう。この経、この品に特に女人の往生を説いているのは、どういう理由があるのか。答えて言う。仏意測り難し。この義、決し難きか。ただし一つの思索を加えてみれば、女人は衆罪の根本、破国の源なり。故に内典・外典に多く女性を戒めている。その中に外典を以て之を論ずれば、三従あり。三従と申すは三したがうと云ふなり、一には幼にしては父母に従う。嫁して夫に従う。老いて子に従う。此の三障有りて世間では自在にならないのである。

内典を以て之を論ずれば五障有り。五障とは一には六道輪回の間、男子の如く大梵天王と作らず。二には帝釈と作らず。三には魔王と作らず。四には転輪聖王と作らず。五には常に六道に留まっていて、三界を出でて仏に成ることはない。

超日月三昧経の文なり、銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し」等云云、

ただし凡夫でさえ賢王や聖人はウソをつかない。はんよき(范於期)という者はけいか(荊軻)に頸をあたえ、きさつ(季札)と申せし人は徐の君主が塚に剣をかけた。これは約束を違えず、ウソをつかなかったからである。ましてや声聞・菩薩・仏をや。仏は昔凡夫でいらっしゃった時、小乗経を習い給いし時、五戒を受け始められた。五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持たれた。財を奪われ命をほろぼされし時も、この戒をやぶられなかった。大乗経を習い給いし時、又十重禁戒を持ち、その十重禁戒の中の第四の不妄語戒を持たれた。この戒を堅く持って無量劫之を破られなかった。終に此の戒力に依って仏身を成じ三十二相の中に広長舌相を得たまえり。この舌うすくひろくながくして、あるいは顔を覆い、あるいは髪際にまでいたり、あるいは梵天にいたる。舌の上に五の画あり、印文のごとし、その舌の色は赤銅のごとし。舌の下に二の珠あり、甘露を涌出す。これ不妄語戒の徳の至す所なり。仏この舌を以て三世の諸仏の御眼は大地に落ちても法界の女人は仏になるべからずと説かれしかば、一切の女人は何なる世にも仏になれることはないと思われる。そうであるならば女人の御身を受けられて、たとい后や三后の位についたとしても、どうしようもないし、善根・仏事を行っても甲斐がないと思われる。ところがこの法華経の薬王品に女人の往生をゆるされた事は又不思議である。かの経(爾前経)の妄語か、この経の妄語か、どうみても一方は妄語であるはずではないか。もし又一方が妄語であるならば一仏に二言あることになり、信じがたい。

但し無量義経の四十余年には未だ真実を顕していない。涅槃経の如来には虚妄の言無しと雖も、もし衆生が虚妄の説によって法利を得ると知るとの文をもって之を思えると、仏は女人は往生成仏できないと説かれているのは妄語と聞える。妙法華経の文に世尊の法は久くして後に要ず当に真実を説くべし、妙法華経乃至皆是真実と申す文を以て之を思うに、女人の往生成仏決定と説かるる法華経の文は実語不妄語戒と思われる。世間の賢人もただ一人ある子が不思議なる時、あるいは失ある時は、永久にわが子ではないという説明の起請を書き、あるいは誓言を立てるといっても、命終の時に臨めば之を許す。しかしながら賢人ではないとはいわない。またうそつきの者とも言わない。仏もまた同様である。

爾前四十余年が間は菩薩の得道凡夫の得道・善人・男子等の得道をば許すようだけれども、二乗・悪人・女人なんどの得道を許していない。あるいは又許すににたる事もある。いまだ定められなかったのを仏の説教・四十二年すでに過ぎて、御年七十二、摩竭提国王舎城耆闍崛山という山において、法華経を説かれようとされた時、先まず無量義経と申す経を説かれた。無量義経の文には「四十余年云云」とあるのである。
 月 日 日 蓮 花押