御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

上野殿後家尼御返事 全1504頁 新1832頁

「地獄即寂光御書」ともいう。

文永11年7月11日、大聖人が53歳のとき、身延でおしたためになられた御書です。

文永2年の御術作という説もあります。

お手紙を頂いたのは南条七郎次郎時光の母です。

時光の純真不屈の信心はこの母の感化によるところが多い。

 

上野殿後家尼御返事 文永十一年七月 五十三歳御作

 御供養の品物を種種いただきました。そもそも上野殿死去の後は、冥途より訪れられたでしょうか。もしあればお聞きしたいものです。ただし、あるとも思えません。もし夢でなければ姿を見ることもよもやないでしょう。幻でもなければ見えるなどということがどうしてありましょう。きっと霊山浄土にて娑婆の事を、昼夜に見聞きされておられることでしょう。妻子等は肉眼であるから見たり聞いたりはできないでしょう。ついには(霊山浄土で)一所になると思いなさい。生生世世の間契りをかわした夫は大海の砂のかずよりも多くあることでしょうが、このたびの契りこそまことの契りの夫です。そのわけは、夫の勧めによって法華経の行者となられたのですから(亡き夫を)仏と尊ぶべきです。生きておられたときは生の仏、今は死の仏。生死ともに仏です。即身成仏と申す大事の法門はこれです。

法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。て浄土と云うのも地獄と云うのも外にあるのではない。ただ我等がむねの間にありる。これをさとるのを仏という。これに迷うのを凡夫というのだ。これを悟ることができるのは法華経です。もしそうであるならば法華経をたもって信心するものは地獄即寂光と悟ることができる。

たとえ無量億歳の間、権教を修行したとしても、法華経をはなれるならば、ただいつも地獄なのです。この事は日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏が定めおかれたことなのです。それゆえ権教を修行する人は、火に焼かれる者が又火の中へ入り、水に沈む者なお淵の底へへ入るようなものである。

法華経を受持しない人は、火と水との中に入っていくようなものである。法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ、阿弥陀経大日経等を信じるのは、なお火より火の中、水より水の底へ入るようなものである。どうやって苦患をまぬかれることができようか。等活・黒繩・無間地獄の火坑・紅蓮・大紅蓮の氷の底に入り沈みゆくことは疑いない。法華経の第二に云く「其の人命終して阿鼻獄に入り是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。
 故聖霊は此の苦から免れられています。すでに法華経の行者たる日蓮の檀那だからです。経に云く「たとい大火に入っても火も焼くことができない。もし大水に漂わされてもその名号をとなえれば即ち浅きところにたどりつく」又云く「火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず」云云、あらたのもしや・たのもしや。

結局は地獄といっても、獄卒の鉄杖、阿防羅刹の呵責の声も別に外にあるのではありません。この法門はゆゆしき大事ですが、尼御前に対して教えてさしあげます。たとえば竜女にたいして文殊菩薩は即身成仏の秘法を説かれたようなものです。これを聞かれたあとは、いよいよ信心を励みなさい。法華経の法門を聞くにつけて・ますます信心に励むのをまことの道心者というのです。天台云く「従藍而青」云云、この釈の心は藍は葉のときよりも、染めれば染めるほどいよいよ青くなる。法華経は藍のようであり、修行の深いのはいよいよ青くなるようなものである。

地獄という二字を土を掘ると読むのです。人が死んだ時、土をほ掘らない者がいるでしょうか。これを地獄というのです。死人を焼く火は無間地獄の火炎です。妻子・眷属の死人の前後を争ってついていくのは獄卒、阿防羅刹です。妻子等が悲しみ泣くのは獄卒の声です。二尺五寸の杖は鉄杖であり、馬は馬頭という鬼、牛は牛頭という鬼です。

(死人を埋める)穴は無間大城であり、八万四千の地獄のかまは八万四千の煩悩であり、(死人が)家を出るのは死出の山、孝子が河のほとりにたたずむのは三途の愛河です。これ以外に求むる事は、はかないことです、はかないことです。

この法華経を受持する人はこのことをうちかへし、地獄は寂光土、火焰は報身如来の智火、死人は法身如来、火坑は大慈悲を室と為す応身如来、また杖は妙法実相の杖、三途の愛河は生死即涅槃の大海、死出の山は煩悩即菩提の重山となると心得なさい。このように心得なさい。即身成仏とも開仏知見ともいうのです。これをさとり、これをひらくことをいうのです。提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、竜女が即身成仏もこれより外はないのです。逆即是順の法華経だからであり、これが妙の一字の功徳です。

 竜樹菩薩は「譬えば大薬師が能く毒を変じて薬と為すようなものである」と述べ、妙楽大師は「伽耶城を離れて別に常寂光を求めてはいけない。寂光土の外に別に娑婆世界が有るのではない」とも、また「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土なり」とも述べている。法華経に云く「諸法実相乃至・本末究竟等」と。寿量品には「我実に成仏してより已来無量無辺なり」等とあります。

 此の経文に我というのは十界のことです。十界は本有の仏であるから浄土に住するのです。方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、世間の習いとして三世常恒の相なのであるから、嘆くべきでないし、驚くべきでもありません。相の一字は八相であり、八相も生死の二字を出ない。このように悟ることを法華経の行者の即身成仏というのです。

聖霊はこの経の行者であったから即身成仏は疑いありません。だからさほどに嘆かれることはないのです。また、なげき嘆かれるのが凡夫の道理でありましょう。ただし聖人の上にもこれはあるのです。釈迦仏が御入滅のとき、悟りを得ている諸大弟子等の嘆きは、凡夫の振る舞いを示されたものでありましょうか。
 いかにも・いかにも追善供養を心のを及ぶ限り励まれるがよいでしょう。古徳のことばにも「心地を九識にもち修行をば六識にせよと」と教えていますが道理です。この手紙には日蓮の秘蔵の法門を書いておきました。秘しさせ給へ・秘しさせ給へ(心して内密にされるがよい)、あなかしこ・あなかしこ。
 七月十一日 日 蓮 花押
 上野殿後家尼御前御返事