御書大好き!!

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南条殿御返事 (大橋太郎抄) 1531頁 (新版御書1856頁)55歳御作

建治二年三月二十四日、身延で著され南条時光に与えられた御消息です。

別名を「大橋太郎抄」「大橋書」「報南条七郎次郎書」とも呼ばれている。

 

(308)

南条殿御返事(大橋太郎の事)

 建治2年(ʼ76)閏3月24日 55歳 南条時光

 かたびら一つ・しおいちだ・あぶら五升、確かにいただきました。
 衣は寒さをふせぎ、また、暑さを防ぎ、身を隠し、身を飾る。法華経の第七薬王品に云わく「裸なる者の衣を得たるがごとし」等云々。心は、はだかなるもののころもをえたるがごとし。文の心は、うれしきことを述べたものである。付法蔵の人のなかに商那和衆という人がいて、衣を着て生まれてこられた。これは先生に仏法に衣を供養せし人である。それゆえ、法華経に云わく「柔和忍辱衣」等と説かれている。
 こんろん山には(珠ばかりで)石がない、身延の嶽には塩がない。石のないところには、たまよりも石がすぐれている。塩のないところには、塩は米よりもすぐれている。国王のたからは左右の大臣なり。左右の大臣のことを塩梅(あんばい)という。味噌や塩がなければ生きていくことが難しい。左右の臣なければ、国がおさまらない。
 あぶらと申すは、涅槃経に云わく「風のなかに油なし。油のなかに風はない」。風病を治す第一のくすりなり。
 かたがたのもの送っていただいた。御心ざしのあらわれて候こと、言い尽くせない。それも結局は、故南条殿法華経の御信用が深かったことがあらわれたものだろうか。「王の心ざしをば臣が述べ、親の志を子が申し述べる」とは、これである。あわれ、故殿はうれしく思っておられるであろう。

 (昔)筑紫には大橋の太郎という大名がいた。大将どの(源頼朝)の御勘気を受けて、かまくらゆいのはま、つちのろうに押し込められて十二年。召し捕られて、筑紫を出る時に、ごぜん(夫人)にむかいていうには「弓矢取る武士の身となって、主君の御勘気を蒙ることはなげきではない。また、御前とは幼いころより親しくしてきたのを、いま離れることは言いようもなく辛い。これはさておいて、男子でも女子でも子が一人もいないことがなげきである。けれども懐妊したと聞いた。女の子であろうか、男の子であろうか。先々見届けることができなくて残念である。また、その子が一人前の人となって、父という者がいなくてなげくであろう。どのようにすべきかと思うけれども、力及ばない」といって出発した。
 やがて月日がすぎて、ことゆえなく生まれにき。男の子であった。七歳のとし、やまでらに登らせたが、ともだちなりけるちごども、「おやなし」とわらいけり。いえにかえりて、ははにちちをたずねけり。はは、話すことができなくて泣くよりほかしかたなかった。このちご申す。「天なくしては雨ふらず。地なくしてはくさおいず。たとい母ありとも、ちちなくばひととなるべからず。いかに父のありどころをば隠されるのですか」とせめしかば、母せめられて云う、「あなた幼かったので言わなかったのです。事実はこうです」。
 このちご、泣く泣くいうには、「さて、ちちのかたみはありませんか」と申せしかば、「これあり」とて、おおはしのせんぞの日記、ならびにはらの内なる子にゆずれる自筆の状なり。いよいよおやこいしくて、泣くばかりであった。「さて、いかがせん」といいしかば、「これより郎従数多く供をしたけれども、御かんきをかぼりければ、みなちりうせぬ。そののちは、生きておられるのか、また死んでおられるのか、知らせに来てくれる人もいない」とかたりければ、稚児はうつ伏し、ころび、泣いて、いさめてもいうことを聞かなかった。

 母が「あなたを山寺に登らせたことは、父上の孝養のためです。仏に花を供えて、経を一巻でも読んで孝養としなさい」と言ったので、急いで寺にのぼって、いえへかえる心はない。昼夜に法華経を読めば、読み通すのみならず、そらに覚えるほどになった。
 さて十二の年に、出家もしないで髪を包み、あれこれ手をつくして逃げだして、鎌倉というところへ訪れた。八幡の御前に参って、伏し拝んでいうには、「八幡大菩薩は日本第十六の王、本地は霊山浄土において法華経を説かれた教主釈尊である。衆生の願いを聞いて叶えてあげようと、神の姿でお現れになったとお聞きします。今私の願いを叶えてください。親は生きているのでしょうか。死んでいるのでしょうか」と申して、いぬの時(午後8時ごろ)より法華経をはじめて、とらの時(御前4時ごろ)までに読み続けたので、何とも言えぬ幼き声が宝殿に響き渡り、こころすごかりければ(心にしみわたるようであったので)、参詣に来ていた人々も帰ることを忘れてしまった。皆人、市のように集まって見れば、幼い人で、法師とも思われず、女人でもなかった。

おりしも、京の二位殿が御参詣になっていた。人目を忍んでお参りされたのであるけれど、御経の尊きこと、いつも以上にすぐれていたので、読み終わるまで御聴聞されていた。さて、お帰りになっていらっしゃったが、あまりの名残惜しいので、人をその場につけておいて、大将殿へ「このようなことがありました」と申されたので、稚児をめして、持仏堂で御経を読ませられた。

次の日、また御聴聞されていると、西のみかど、人が騒いだ。「どうしたのだ」とききしかば、「今日は、囚人の首が斬られる」と大声で叫んだ。あわれ、私の親はいままで生きているとは思わないけれども、さすがに人がく首を斬られると聞けば、我が身のなげきと思って涙ぐんでしまった。大将殿、不審に思われて、「和児はいかなる者か。ありのままに申せ」と言われたので、上までのこと、一々に申しあげた。おそばについていた大名・小名、みすの内(簾のうちの女房達も)、皆【涙を流し涙で濡れた】そでをしぼったのであった。

大将殿、かじわら(梶原景時)を呼び寄せて言われるには、「大橋の太郎という囚人を連れてまいれ」と、「只今首を斬るために、由比ヶ浜へ連れて行ったところです。今はもう斬っているかもしれません」と答えたので、この稚児は、御前であったけれども、伏しころびながら泣いた。大将殿が言われるには、「かじわら、自ら走っていって、いまだ斬ってなければ、連れてまいれ」と。いそぎいそぎ、由比ヶ浜へ馳せ行く。いまだいたらぬに大声で叫んで制止したのは、すでに頸を斬ろうとして刀を抜いたときであった。
 さて梶原、大橋の太郎を縄のついたまま連れてきて、大庭に引き据えた(その場に座らせた)、大将殿、「この稚児にとらせよ(与えなさい)」とありしかば(言ったので、ちご、走り下りて縄をといた。大橋の太郎は、わが子ともしらず、どうして助かるのかも知らなかった。さて、大将殿、まためして、このちごに様々な御布施を与えてて、おおはしの太郎を下げ渡されただけでなく、本領をも安堵ありけり(もとのようにくだされた)。
 大将殿、おおせありけるは、「法華経の御事は昔よりさることとは聞き伝えていたけれども、自分も身に当たることが二つある。一つには、故親父(源義朝)の御くびを太政入道(平清盛)に斬られて無念とも何とも言いようがなかったので、いかなる神仏に祈念すべきかと思っていたところ、走湯(いず)山の妙法尼より法華経を読み習って千部を読誦したとき、高雄のもんがく(文覚)房、おやのくびをもって来てみせた上、かたきを討つだけでなく、日本国の武士の大将となることができた。これひとえに法華経の御利益である。二つには、この稚児が親をたすけたことは、不思議です。大橋太郎というやつは、頼朝が『けしからぬもの』と思っていた。たとえ許すように勅宣が下されようとも、それをお返しして首を斬ったであろう。あまりのにくさに十二年まで土のろうには入れておったが、このような不思議があった。そのため、法華経の御利益と申すことはありがたきことなり。頼朝は武士の大将として、多くの罪がつもりてあるけれども、法華経を信じまいらせているので、悪道に堕ちることはないであろう」と、なみだぐまれた。


 今の御志を見ると、故南条殿は、ただ子なれば、いとおしとは思われていたであろうが、このように法華経をもって自分の孝養をしてくれるだろうとは、よもや思われなかったであろう。たとえ、つみありていかなるところにおわすとも、この御孝養の志をば、えんまほうおう・ぼんてん・たいしゃくまでも知っておられるであろう。釈迦仏・法華経もどうして捨てられることがあろうか。かのちごのちちのなわをときしと、この御志、かれに違うことはない。これ(日蓮)はなみだをもって書いているのである。
 また、蒙古が攻めてくるということは、これにはいまだ聞いてはいない。これを申せば、「日蓮房は蒙古国が攻めてくるといえばよろこぶ」と言われている。これ、いわれのないことである。「このようなことがあるだろう」と言ったので、あだ(仇)かたき(敵)のように、人ごとに日蓮を責めたのであるが、経文に説かれてあるので(蒙古が)攻めてくるのである。どのようにいわれようとも、致し方ないことである。

失もなく、国をたすけようとしている者を、用いようとしないばかりか、また法華経の第五の巻をもって日蓮の顔を打ったのである。梵天・帝釈はこれを御覧になっていた。鎌倉の八幡大菩薩も見ておられた。どうしても、今は叶うまじき(いましめを聞きいれられない)世であるから、このような山中に入ったのである。
 各々も不便とは思うけれども、助けることは難しいであろう。よるひる法華経に祈念している。御信用の上にも力もおしまず祈念されるがよい。あえてこちらの志が弱いためではない。各々(あなた方)の御信心が厚いか薄いかによるのである。
 結局は、日本国のよき人々(身分の高い人々)は、一定(必ず)いけどりになるであろう。あらあさましや、あらあさましや。(まことにあさましいことである。)恐々謹言。
  後三月二十四日    日蓮 花押
 南条殿御返事