御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

上野殿御返事 1508頁 53歳御作

別名を「土餅供養御書」という。文永11年11月11日、大聖人が53歳の時、身延から南条時光に与えられた御消息です。

初めに仏への供養を得勝童子・無勝童子と儒童菩薩の故事をあげて述べたうえで、法華経を引いて、末法法華経の行者を供養する功徳が、仏に供養する功徳よりもはるかに勝ることを示しています。

 次に時光が父兵衛七郎亡き後の南条家を継いだだけでなく、正法の信仰を受け継いだことを喜ばれ、父子ともに霊山に生まれるであろうと述べています。そして、日本一国を救わんとの大慈悲の諌暁を幕府が用いないため、やむなく身延へ入られた心境を明かされ、蒙古の襲来による民衆の苦悩を思いやられ、「念仏宗と申すは亡国の悪法なり・・・・禅宗と申し当時の持斎藤法師等は天魔の所為なり・・・・真言宗と申す宗は本は下劣の経にて候しを・誑惑して法華経に勝るなんど申し」等と、念仏・禅・真言の諸宗が国を亡ぼす悪法であることを示し、特に真言による調伏が、かえって国の滅亡を早めると断じられています。

 

 

 上野殿御返事 文永十一年十一月 五十三歳御作
 与南条七郎次郎
 聖人二管(すみざけふたつつ)・柑子(こうじ)一籠(いっこ)・蒟蒻(こんにゃく)十枚・薯蕷(やまのいも)一籠・牛房(ごぼう)一束・種種の物送り給び候。
 得勝・無勝の二人の童子は仏に砂の餅を供養して、一閻浮提の三分が一の主となった。いわゆる阿育大王がそれである。儒童菩薩は錠光(じょうこう)仏に五茎の蓮華を供養して仏となった。今の教主釈尊がこれである。法華経の第四の巻の法師品に「人がいて仏道を求めて、一劫の中において合掌して我が前に在つて無数の偈を唱えて讃めれば、是の讃仏したことで無量の功徳を得るだろう。持経者を歎美する者はその福また彼れに過ぎるであろう」等とある。文の心は仏を一中劫が間供養するよりも、末代悪世の中に、人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳は勝れているととかれている。誰が人のそのようなひが事を述べているのかと疑い考えたら、教主釈尊が自ら仰せになったのである。疑おうと信じようとあなたの心にまかせる。仏の御舌はあるいは顔を覆い、あるいは三千大千世界を覆い、あるいは色究竟天にまで付けられるほどである。過去遠遠劫よりこのかた、一言も妄語がない故である。そのためある経には「須弥山は崩れるとしても、大地が覆るとしても仏には妄語はない」と説かれている。日は西より出ることが合っても、大海の潮の干満がなくなっても、仏の御言にあやまりはないという。その上この法華経は他経に勝れているので、多宝仏も証明し、諸仏も舌を梵天につけられた。一字一点も妄語があるはずがない。
 その上殿は幼少でおられた。亡き父君は武士であったけれども、強盛に法華経を尊まれていたので、臨終正念であったと承っている。その親の跡をつがれて、またこの経を信仰されているので、故聖霊がどんなにか草葉のかげでも喜ばれていることでしょう。もしも生きておわせばどんなにうれしく思われることでしょう。この経を持つ人人は他人であっても同じ霊山へ参ってまた会うことができるのである。ましてや故聖霊も殿も同じく法華経を信じておられるので、同じところに生まれられるであろう。どうしてかというと他人は五・六十まで親と同じ白髪になる人もいる。自分は若い身で親に早く別れ、色々教えてもらえなかったというあなたの御心中を推し量ると、涙をおさえることができません
 そもそも日蓮は日本国をたすけたいと深く思うけれども、日本国の上下万人、一同に国が亡ぶためであろうか、用いられない上にたびたび迫害を加えられたので、力が及ばず、山林に入ったのである。大蒙古国より攻めてきたと聞いたが、(日蓮が)申した事を用いられていたならば、どうだったであろうかとあはれに思う。すべての人が今の壱岐対馬のようになられるであろうと思いやると涙が止まらない。
 念仏宗と申すは亡国の悪法である。この戦では大体・人人は自害をしたようである。善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて、自害をしてしまったために、念仏をよくよく唱えると自害の心が起きてくるのである。
 禅宗といい、当時の持斎法師等は天魔の所為(仕業=しわざ)である。教外別伝と言って神も仏もないなどという物狂わしい悪法である。
 真言宗という宗は、本は下劣の経であったのを、誑惑して法華経にも勝るなどと言って多くの人人が大師・僧正などになりすまして日本国に大体充満して、上一人より皆が頭を下げるようになってしまった。これが第一の邪事であることを、昔より今にいたるまで知る人がいない。ただ伝教大師という人だけがこのことを知っていたけれども、くわしくは述べられなかった。そして日蓮はほぼこの事を知っている。後白河の法皇が太政の入道(平清盛)にせめられたのも、隠岐の法王が鎌倉(北条義時)に負けたことも事みな真言悪法のためなのである。(インドから)漢土(中国)にこの法わたって玄宗皇帝亡びている。この悪法が鎌倉に下つて今鎌倉にはやっている。僧正法印等は是である。これらの人人がこのいくさを調伏するならば、百日戦うところが十日に縮まって敗れ、十日のいくさは一日で攻められるであろう。今始めて言うのではない。二十余年の間、声も惜しまず叫んできているのである。あなかしこ・あなかしこ。この手紙には大事な事をたくさん書いている。よくよく人に読ませて、聞かせていきなさい。人が謗ったとしても、我らはものとも思わない法師等じゃないか。恐恐謹言。
 文永十一年太歳甲戌十一月十一日 日 蓮 花押
 南条七郎次郎殿御返事