御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

上野殿御返事 1537頁 (新版御書1864頁)56歳御作

別名を「梵帝御計事」といいます。

南条時光が御供養とともに、信心をやめさせようと意見する者がいることを報告したことに対する御返事です。

概略を載せておきます。

尹吉甫(いんきっぽ)【宣王の臣下で、異民族である玁狁を征伐した】をだました後妻の例や、提婆達多が阿闍世太子をそそのかして父の頻婆娑羅王を殺させた例や、波瑠璃王が阿闍世王にたぶらかされて釈迦族を殺戮した例等を引き、これらは第六天の魔王がその身に入って釈尊に九横の大難等の迫害を加えたのであると述べています。そして法華経の文を上げて如来の滅後に法華経を説く者に対しては、釈尊在世よりもさらに大きな難が競い起こるであろうと説かれていることを示し、その通りに大難に遭っているのは日蓮大聖人だけであると法華経を身読される喜びを述べられています。また「日本国一時に信ずることあるべし」と教え、さらに国中の人々が憎んでいる大聖人の門下となって信心に励んでいる南条時光に対して、信人をやめさせようとする者がいるのは当然であるとされ、親切ごかしに信心を辞めさせようと教訓するものに対して、どのように対処すればいいかを指示して、難に立ち向かう心構えを教えられています。

 

{今回で日蓮大聖人御書講義36巻にある御書は終了です)

 

(311)

上野殿御返事(梵帝御計らいの事)

 建治3年(ʼ77)5月15日 56歳 南条時光

 五月十四日に、いものかしら一駄、わざわざ送っていただいた。今時分のいもは、人が忙しい時でもあり、宝珠のようであり、薬のようでもある。
 さて、仰せつかわされたこと承知しました。
 尹吉甫(いんきっぽ)という人は、ただ一人子どもがいた。伯奇(はくき)という。おやも賢人であり、子も賢かった。いかなる人かこの仲をたがえさせることはできないと思っていたけれども、継母がおりおりに訴えたことに対しては用いなかったが、継母、数年の間様々なはかりごとをした中に、蜂と申す虫を自分のふところに入れて、いそぎいそぎ伯奇にとらせて、しかも父にみせ、自分に思いをかけているといいつけて、伯奇をなきものにしようとした。
 頻婆娑羅王と申せし王は、賢王なる上、仏の御だんなの中に閻浮第一なり。しかもこの王は摩竭提国の主なり。仏はまた、この国にして法華経をとかんとおぼししに、王と仏と一同なれば、一定法華経とかれなんとみえて候いしに、提婆達多と申せし人、いかんがしてこのことをやぶらんとおもいしに、すべてうまくいかなかったので、あれこれ画策した。そうして頻婆娑羅王の太子・阿闍世王を数年の間あれこれ説得して、ようやく心をつかみ、おやと子との仲をたがえさせ、阿闍世王をだまし、父の頻婆娑羅王をころさせ、阿闍世王と心を一にし、提婆と阿闍世王と一味となりしかば、五天竺の外道・悪人、雲・かすみのごとくあつまり、国を与え、宝をほどこし、心をやわらげすかししかば、一国の王すでに仏の大怨敵となる。
 欲界第六天の魔王、無量の眷属を具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世・六大臣等の身に入りかわりしかば、形は人なれども力は第六天の力なり。大風の草木をなびかすよりも、大風の大海の波を立てるよりも、大地震の大地をうごかすよりも、大火の連宅を焼くよりもさわがしく、畏れおののいたのである。
 されば、はるり王と申せし王は、阿闍世王にかたらわれ、釈迦仏の御身したしき人数百人切り殺した。阿闍世王は、酔象を放って弟子を無量無辺(数えきれないほど多く)踏み殺させた。あるいは道に兵士を伏せ置き、あるいは井戸に糞を入れ、あるいは女人をかたらいてウソをいいつけて仏弟子を殺した。舎利弗・目連が事件にあい、かるだい(加留陀夷)は馬のくそ埋められて殺され、仏はせめられて一夏九十日間、馬の(えさの)むぎを召し上がったのは、このことである。
 世間の人が思うには、「悪人には、仏の御力もかなわざりけるにや」と思いて、信じたりし人々も音をのみてもの申さず、眼をとじてものをみることなし。ただ舌を巻き、手を左右に振るばかりであった。揚げ句の果ては、提婆達多が釈迦如来の養母・蓮華比丘尼を打ちころし、仏の御身より血を出だせし上、誰の人か、味方になるであろう。
 このように時が経ってきたのちどうしたことか、法華経を説かれた。この法華経に云わく「しかもこの経は、如来の在世すらなお怨嫉多い。いわんや滅度して後をや」と云々。文の心は、私が現に存在していても、この経の御かたき、このようである。いかにいおうや、末代に法華経を一字一点もとき信ぜん人をやと、説かれて候なり。これをもって思えば、仏、法華経をとかせ給いて今にいたるまでは二千二百二十余年になり候えども、いまだ法華経を仏のごとくよみたる人はおらぬか。大難をもちてこそ、法華経しりたる人とは申すべきに、天台大師・伝教大師こそ法華経の行者とはみえて候いしかども、在世のごとくの大難なし。ただ、南三北七・南都七大寺の小難なり。いまだ国主かたきとならず、万民つるぎをにぎらず、一国悪口をはかず。滅後に法華経を信ぜん人は在世の大難よりもすぐべく候なるに、同じ程の難だにも来らず。いかにいわんや、すぐれたる大難・多難をや。

 虎がほえれば大風がふく、竜が鳴けば雲おこる。野兎がほえ、驢馬のいなないても、風もふかず、雲がおこることはない。愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は、国もさわがず、なに事もおこらない。聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時、一国もさわぎ、在世にすぎたる大難おこるであろうと記されている。
 今、日蓮は、賢人にもあらず、まして聖人とは思いもよらない。天下第一のひねくれものではあるが、ただ、経文ばかりには符合しているようなので大難が起こってきたのであるから、父母が生き返られたよりも、憎いものが事故にあったよりもうれしいことである。愚者であり、しかも仏に聖人と思われることこそ、うれしきことである。智者たる上、二百五十戒かたくたもって、万民には諸天の帝釈をうやまうよりも、うやまわれて、釈迦仏・法華経に「不思議である、提婆のようである」と思われたならば、人目はよいようであっても、後生は恐ろしいことである、恐ろしいことである。

 ところで、殿は法華経の行者に似ていると伝え聞くと、思いのほかに、親しい人も、うとき(疎遠な人)も、「日蓮房を信じては、さぞかし苦労するであろう。主君の御機嫌も悪いであろう」と、味方であるようにて御教訓する。賢人でさえも人のはかりごとはおそろしいことなので、必ず法華経を捨てられるであろう。かえって(法華経の行者とわかる)そぶりを見せない方がよいであろう。

 大魔のついた者は、一人を教訓し退転させたときは、それをひっかけにして多くの人をせめおとすのである。日蓮が弟子に、しょう房と申し、のと房といい、なごえの尼なんど申せしものどもは、よくふかく、心おくびょうに、愚癡にして、しかも智者となのりし連中だったので、事がおこった時、機会をえて多くの人を退転させたのである。殿も攻め落とされるならば、駿河の国に少々信ずるようなる者も、また信じようと思っている人も皆、法華経を捨てることであろう。それゆえ、この甲斐国にも少々信ぜんと申す人々がいるけれども、はっきりしないうちは、入信させないでいる。なまじっかな人が信心しているような格好をして、いい加減なことをしていくときには、人の信心をもやぶってしまうのである。
 ただ放っておきなさい。梵天・帝釈等の御計らいとして、日本国一時に信ずることがあるであろう。その時、「我も本から信じていた、信じていた」という人が、多くいるであろうと思われる。

 


 御信用あつくおわするならば、「人のためではなく。我が故父の御ため。人は我がおやの後世にはかわるべからず。子なれば、我こそ故おやの後世をば弔うことができるのだ。郷を一郷治めるならば、半郷は父のため、半郷は妻子・眷属を養うためであるべきだ。我が命は、事が起こったならば主君にまいらせよう」と、ひとえにおもいきりて、何事につけても、言をやわらげて法華経の信をうすくなさんずるようをたばかる人出来せば、我が信心を試みているのかと思って、「あなた方が私を御教訓されるのはうれしきことである。ただし、御自身を教訓なされるがよい。主君が御信用ないことは私も知っているのに、主君をもっておどされることこそおかしいことだ。出かけて教訓しようと思っていたのに先手を打たれてしまった。閻魔王に、自身といとおしとおぼす御妻子とがひっぱられる時は、時光に手をすりあわせられることであろう」と、にくらしげに言い置かれるがよい。
 新田殿のこと、本当であろうか。沖津のことは、きいている。殿も機会があれば、そ道理を貫きなさい。かまえて、大身の人が言ってきたときは「あわれ、法華経のよきかたきよ。優曇華か、亀の浮き木か」とおぼしめして、したたかに御返事なさるがよい。
 千丁万丁を治める人でも、わずかのことにたちまちに命をすて、所領を取り上げられる人もあり。今度、法華経のために命をすつることならば、なにが惜しいことであろう。薬王菩薩は身を千二百歳が間やきつくして仏になり給い、檀王は千歳が間身をゆかとなして今の釈迦仏といわれるようになったのである。したがって、心得ないことをすべきではない。今は、信心をすてたならば、かえって人にわらわれることになるであろう。味方のようなふりをして偽って退転させ、自分もわらい、人にもわらわせようとするけしからん者に、よくよく教訓させておいて、「人の多く聞いているところで人を教訓するよりも、我が身を教訓しなさい」と言って、勢いよく座を立たれるがよい。一日二日が内にこっちに報告してきなさい。事柄が多いのでこの辺でやめておきます。またいうことにします。恐々謹言。
  建治三年五月十五日    日蓮 花押
 上野殿御返事