ちょっと間が空いてしまいましたが、前に法華経序品を書いていたので、続きを書きます。
第五 「下至阿鼻地獄(下阿鼻地獄に至る)」の事
御義口伝に云わく、十界皆成の文なり。(大聖人の御義口伝にはこのようにいわれている、十界の衆生がことごとく皆成仏するという証文である。)
提婆が成仏、この文にて分明なり。(提婆達多の成仏はこの文で明らかである。)
宝塔品の次に提婆仏を説くことは二箇の諫暁の分なり。提婆はこの文の時、成仏せり。
この「至」の字は白毫の行くことなり(「至」の字は白毫の光が行くことを指す)。白毫の光明は南無妙法蓮華経なり(である)。「上至阿迦尼咤天(上阿迦尼咤天に至る)」は空諦、「下至阿鼻地獄」は仮諦、「白毫光(白毫の光)」は中道なり。これによって十界同時の成仏なり。
「天王仏」とは、宝号を送るまでなり。(提婆品では天王如来という宝号を与える儀式を行ったのにすぎず、実際には、この品のときすでに仏となったのである。)
されば、依正二報の成仏の時は、この品の「下至阿鼻地獄」の文は依報の成仏を説き、提婆達多の天王如来は正報の成仏を説く。
依報・正報、共に妙法の成仏なり。(このように依報の成仏、正報の成仏と立て分けるけれども依正不二であり、依正ともに南無妙法蓮華経によって成仏したのである。)
今、日蓮等の類い(大聖人およびその門下が)、聖霊を訪う時 (亡くなった方たちを題目で追善回向するとき、)法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時、題目の光(が)無間に至って即身成仏せしむ(成仏させることができる)。
回向の文、これより事起こるなり。法華不信の人は「堕在無間(無間に堕在す)無限」なれども、題目の光をもって、孝子、法華の行者として訪わんに、あにこの義に替わるべけんや。(孝子が正しい仏法によって追善供養してあげるならば、この原理に変わりはなく、抜苦与楽できるのである。)されば、(したがって)「下至阿鼻地獄」の文は、仏が光を放って、提婆を成仏せしめんがためなりと(提婆達多を成仏させようとなされたと)、日蓮、推知し奉るなり。(日蓮大聖人は推知されているのである。)