御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

主師親御書 385頁 (新版御書319頁) 34歳御作

 釈迦仏は、我らがためには、主なり、師なり、親なり。一人してすくい護ると説き給えり。阿弥陀仏は、我らがためには、主ならず、親ならず、師ならず。しかれば、天台大師これを釈して曰わく「西方は仏別にして縁異なり。仏別なるが故に隠顕の義成ぜず、縁異なるが故に子父の義成ぜず。またこの経の首末に全くこの旨無し。眼を閉じて穿鑿せよ」と。
 実なるかな、釈迦仏は中天竺の浄飯大王の太子として、十九の御年、家を出で給いて、檀特山と申す山に籠もらせ給い、高峰に登っては妻木をとり、深谷に下っては水を結び、難行苦行して御年三十と申せしに仏にならせ給いて一代聖教を説き給いしに、上べには華厳・阿含・方等・般若等の種々の経々を説かせ給えども、内心には法華経を説かばやとおぼしめされしかども、衆生の機根まちまちにして一種ならざるあいだ、仏の御心をば説き給わで、人の心に随い万の経を説き給えり。
 かくのごとく、四十二年がほどは心苦しく思しめししかども、今、法華経に至って、「我が願、既に満足しぬ。我がごとくに衆生を仏になさん」と説き給えり。久遠より已来、あるいは鹿となり、あるいは熊となり、ある時は鬼神のために食われ給えり。かくのごとき功徳をば、法華経を信じたらん衆生は、「これ真の仏子なり」とて、「これ実の我が子なり。この功徳をこの人に与えん」と説き給えり。これほどに思しめしたる親の釈迦仏をばないがしろに思いなして、「ただ一大事をもって」と説き給える法華経を信ぜざらん人は、いかでか仏になるべきや。能く能く心を留めて案ずべし。
 二の巻に云わく「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至余経の一偈をも受けざれ」と。文の心は、仏にならんためには、ただ法華経を受持せんことを願って、余経の一偈一句をも受けざれと。三の巻に云わく「飢えたる国より来って、たちまちに大王の膳に遇うがごとし」と。文の心は、飢えたる国より来って、たちまちに大王の膳にあえり。心は、「犬・野干の心を致すとも、迦葉・目連等の小乗の心をば起こさざれ。破れたる石は合うとも、枯れ木に花はさくとも、二乗は仏になるべからず」と仰せられしかば、須菩提は茫然として手の一鉢をなげ、迦葉は涕泣の声大千界を響かすと申して歎き悲しみしが、今、法華経に至って、迦葉尊者は光明如来の記別を授かりしかば、目連・須菩提・摩訶迦旃延等はこれを見て、「我らも定めて仏になるべし。飢えたる国より来って、たちまちに大王の膳にあえるがごとし」と喜びし文なり。
 我ら衆生、無始曠劫より已来、妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども、無明の酒にたぼらかされて、衣の裏にかけたりとしらずして、少なきを得て足りぬと思いぬ。南無妙法蓮華経とだに唱え奉りたらましかば速やかに仏に成るべかりし衆生どもの、五戒十善等のわずかなる戒をもって、あるいは天に生まれて大梵天・帝釈の身と成っていみじきことと思い、ある時は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成って、これ程のたのしみなしと思い、少なきを得て足りぬと思い、悦びあえり。これを仏は、「夢の中のさかえ、まぼろしのたのしみなり。ただ法華経を持ち奉り、速やかに仏になるべし」と説き給えり。
 また、四の巻に云わく「しかもこの経は、如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」云々。釈迦仏は、師子頰王の孫、浄飯王には嫡子なり。十善の位をすて、五天竺第一なりし美女・耶輸多羅女をふりすてて、十九の御年出家して勤め行い給いしかば、三十の御年成道し御坐しまして、三十二相八十種好の御形にて、御幸なる時は、大梵天王・帝釈左右に立ち、多聞・持国等の四天王先後囲繞せり。法を説き給う御時は、四弁八音の説法は祇園精舎に満ち、三智五眼の徳は四海にしけり。しかれば、いずれの人か仏を悪むべき。なれども、なお怨嫉するもの多し。まして滅度の後、一毫の煩悩をも断ぜず少しの罪をも弁えざらん法華経の行者を悪み嫉む者多からんことは、雲霞のごとくならんと見えたり。しからば則ち、末代悪世にこの経をありのままに説く人には敵多からんと説かれて候に、世間の人々、我も持ちたり我も読み奉り行じ候に、敵なきは、仏の虚言か、法華経の実ならざるか。また実の御経ならば、当世の人々、経をよみまいらせ候は虚よみか、実の行者にてはなきか、いかん。能く能く心得べきことなり。明らむべきものなり。
 四の巻に、多宝如来は、釈迦牟尼仏御年三十にして仏に成り給うに、初めには華厳経と申す経を実報華王のみぎりにして、別円頓大の法輪、法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に対して三七日の間説き給いしにも来り給わず。その二乗の機根叶わざりしかば、瓔珞細軟の衣をぬぎすて、麤弊垢膩の衣を着、波羅奈国鹿野苑に趣いて、十二年の間生滅四諦の法門を説き給いしに、阿若俱隣等の五人証果し、八万の諸天は無生忍を得たり。次に欲・色二界の中間、大宝坊の儀式、浄名の御室には三万二千の牀を立て、般若・白鷺池の辺、十六会の儀式、尽浄虚融の旨をのべ給いしにも来り給わず。法華経にも、一の巻乃至四の巻の人記品までも来り給わず、宝塔品に至って初めて来り給えり。
 釈迦仏、先四十余年の経を我と虚事と仰せられしかば、人用いることなく、法華経を真実なりと説かせ給えども、「仏というは無虚妄の人とて永く虚言し給わずと聞きしに、一日ならず二日ならず、一月ならず二月ならず、一年二年ならず、四十余年の程まで虚言したりと仰せられしかば、またこの経を実と説き給うも、虚言にやあらんずらん」と不審をなししかば、この不審、釈迦仏一人しては、舎利弗を始め、事はれがたかりしに、この多宝仏、宝浄世界よりはるばると来らせ給いて、「法華経は、皆これ真実なり」と証明し給いしに、先の四十余年の経を虚言と仰せらるること、実の虚言に定まるなり。
 また、法華経より外の一切経を空に浮かべて、文々句々、阿難尊者のごとく覚り、富楼那の弁舌のごとくに説くとも、それを難事とせず。また、須弥山と申す山は、十六万八千由旬の金山にて候を、他方世界へつぶてになぐる者ありとも、難事には候わじ。仏滅度して後、当世・末代悪世に法華経をありのままに能く説かん、これを難しとすと説かせ給えり。五天竺第一の大力なりし提婆達多も、長三丈五尺、広さ一丈二尺の石をこそ仏になげかけて候いしか。また漢土第一の大力、楚の項羽と申せし人も、九石入りの釜に水満ち候いしをこそひさげ候いしか。それにこれは、「須弥山をばなぐる者は有りとも、この経を説のごとく読み奉らん人は有りがたし」と説かれて候に、人ごとにこの経をよみ書き説き候。経文を虚言に成して、当世の人々を皆法華経の行者と思うべきか。能く能く御心得あるべきことなり。
 五の巻の提婆品に云わく「もし善男子・善女人有って、妙法華経提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して、疑惑を生ぜずんば、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして、十方の仏前に生ぜん」と。この品には二つの大事あり。
 一には、提婆達多と申すは、阿難尊者には兄、斛飯王には嫡子、師子頰王には孫、仏にはいとこにてありしが、仏は一閻浮提第一の道心者にてましまししに、怨をなして、「我はまた閻浮提第一の邪見・放逸の者とならん」と誓って、万の悪人を語らって仏に怨をなして、三逆罪を作して、現身に大地破れて無間大城に堕ちて候いしを、天王如来と申す記別を授けらるる品にて候。しかれば、善男子と申すは、男この経を信じまいらせて聴聞するならば、提婆達多程の悪人だにも仏になる。まして末代の人は、たとい重罪なりとも、多分は十悪をすぎず。まして深く持ち奉る人、仏にならざるべきや。
 二には、娑竭羅竜王のむすめ竜女と申す八歳のくちなわ、仏に成りたる品にて候。このことめずらしく貴きことにて候。その故は、華厳経には「女人は地獄の使いなり。能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て、内心は夜叉のごとし」と。文の心は、女人は地獄の使い、よく仏の種をたつ、外面は菩薩に似たれども、内心は夜叉のごとしと云えり。また云わく「一度女人を見る者は、よく眼の功徳を失う。たとい大蛇をば見るとも、女人を見るべからず」と云い、またある経には「あらゆる三千界の男子の諸の煩悩を合わせ集めて、一人の女人の業障となす」と。三千大千世界にあらゆる男子の諸の煩悩を取り集めて女人一人の罪とすと云えり。ある経には「三世の諸仏の眼は脱けて大地に堕つとも、女人は仏に成るべからず」と説き給えり。しかるに、この品の意は、人・畜をいわば畜生たる竜女だにも仏に成れり。まして我らは形のごとく人間の果報なり。彼の果報にはまされり。いかでか仏にならざるべきやと思しめすべきなり。
 中にも、「三悪道におちず」と説かれて候。
 その地獄と申すは、八寒・八熱、乃至八大地獄の中に、初め浅き等活地獄を尋ぬれば、この一閻浮提の下一千由旬なり。その中の罪人は、互いに常に害心をいだけり。もしたまたま相見れば、猟師が鹿にあえるがごとし。各々鉄の爪をもって、互いにつかみさく。血肉皆尽きて、ただ残って骨のみあり。あるいは獄卒、棒をもって頭よりあなうらに至るまで皆打ちくだく。身も破れくだけて、なお沙のごとし。焦熱なんど申すは、譬えんかたなき苦なり。鉄城四方に回って門を閉じたれば、力士も開きがたく、猛火高くのぼって金翅のつばさもかけるべからず。
 餓鬼道と申すは、その住処に二つあり。一には地の下五百由旬の閻魔王宮にあり。二には人天の中にもまじわれり。その相、種々なり。あるいは腹は大海のごとく、のんどは鍼のごとくなれば、明けても暮れても食すともあくべからず。まして五百生・七百生なんど飲食の名をだにもきかず。あるいは己が頭をくだきて脳を食するもあり、あるいは一夜に五人の子を生んで夜の内に食するもあり。万菓、林に結べり。取らんとすれば、ことごとく剣の林となり。万水、大海に流れ入りぬ。飲まんとすれば、猛火となる。いかにしてか、この苦をまぬかるべき。次に畜生道と申すは、その住所に二つあり。根本は大海に住す。枝末は人天に雑われり。短き物は長き物にのまれ、小さき物は大なる物に食らわれ、互いに相食んでしばらくもやすむことなし。あるいは鳥獣と生まれ、あるいは牛馬と成っても重き物をおおせられ、西へ行かんと思えば東へやられ、東へ行かんとすれば西へやらる。山野に多くある水と草をのみ思って、余は知るところなし。
 しかるに、善男子・善女人、この法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱え奉らば、この三罪を脱るべしと説き給えり。何事か、これにしかん。たのもしきかな、たのもしきかな。
 また、五の巻に云わく「我は大乗の教えを闡いて、苦の衆生を度脱せん」と。心は、「われ大乗の教えをひらいて」と申すは、法華経を申す。「苦の衆生」とは何ぞや。地獄の衆生にもあらず、餓鬼道の衆生にもあらず、ただ女人を指して、「苦の衆生」と名づけたり。五障・三従と申して、三つしたがう事有って、五つの障りあり。竜女、「我、女人の身を受けて、女人の苦をつみしれり。しかれば、余をば知るべからず、女人を導かん」と誓えり。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経
    日蓮 花押