御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

種種御振舞御書 後半を新版御書で書き直す 全916頁5行目  新1234頁

(2024年)二月度大白蓮華 研修教材の範囲から先に書きますよ~

各々思い切り給え。この身を法華経にかうるは、石に金をかえ、糞に米をかうるなり。
 仏の滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台等、妙楽・伝教等だにも、いまだひろめ給わぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に、日蓮さきがけしたり。
 わとうども二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこえよかし。わずかの小島のぬしらがおどさんをおじては、閻魔王のせめをばいかんがすべき。仏の御使いとなのりながらおくせんは、無下の人々なりと申しふくめぬ。

(ここまでが大白の研修教材の範囲です) 

 

(この後から916頁4行目までは、以前に書いているので、そちらをご覧ください)

916頁5行目~

 同十月十日に依智を立って、同十月二十八日に佐渡国へ著きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のように死人を捨つる所に、一間四面なる堂の、仏もなし。上はいたまあわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆることなし。かかる所にしきがわ打ちしき、蓑うちきて、夜をあかし、日をくらす。夜は雪・雹・雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給わず。心細かるべきすまいなり。彼の李陵が胡国に入ってがんくつにせめられし、法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかなやきをさされて江南にはなたれしも、只今とおぼゆ。
 あらうれしや。檀王は阿私仙人にせめられて、法華経の功徳を得給いき。不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて、一乗の行者といわれ給う。今、日蓮は、末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあえり。仏滅度して後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も「一切世間に怨多くして信じ難し」の経文をば行じ給わず。「しばしば擯出せられん」の明文は、ただ日蓮一人なり。※「一句一偈、我は皆ために授記す」は我なり。阿耨多羅三藐三菩提(成仏すること)は疑いなし。

「一句一偈、我皆記を与え授く」法師品第十の「妙法の一偈一句を聞いて、、乃至一念も随喜せん者には、我皆記を与え授く」の文の省略。法華経の中の一句一偈を聞いて信心の心を起こしたものは、仏がみな、その人たちへ仏が皆その人たちへ仏となる証明を与えるという意味。


 相模守(さがみのかみ)殿こそ善知識よ、平左衛門こそ提婆達多よ。念仏者は瞿伽利尊者(くぎゃりそんじゃ)、持斎等は善星比丘なり。在世は今にあり、今は在世なり。法華経の肝心は、「諸法実相」ととかれて「本と末とは究竟して等し」とのべられて候はこれなり。


 摩訶止観第五に云わく「行解既に勤めぬれば、三障四魔、紛然として競い起こる」文。また云わく「猪(いのしし)の金山を摺(す)り(こすってますます光らせる)、衆流の海に入り、薪(たきぎ)の火を熾(さか)んにし、風の求羅(ぐら=加羅求羅という虫)を益す(太らせる)ようなものである。」等云々。釈の心は、法華経を教えのごとく、機に叶い時に叶って解行(かいぎょう=信解し、修行すること)すれば、七つの大事出来す。その中に天子魔とて、第六天の魔王、あるいは国主、あるいは父母、あるいは妻子、あるいは檀那、あるいは悪人等について、あるいは随って法華経の修行をさまたげ、あるいは反対するはずである。いずれの経をも行ぜよ、仏法を行ずるには分々に随って留難あるべし。その中に、法華経を行ずるには強盛にさうべし。法華経をおしえのごとく、時と機根に適合して行ずるには、とくに強くに難があるはずである。

 

故に、弘決の八に云わく「※もし衆生、生死を出でず、仏乗を慕わずと知らば、魔は、この人において、なお親の想いを生ず」等云々。釈の心は、人、善根を修すれども、念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば、魔王、親のおもいをなして、人間につきて、その人をもてなし供養す。世間の人に実の僧と思わせんがためなり。例せば、国主のたっとむ僧をば諸人供養するがごとし。されば、国主等がかたきにするのは、既に正法を行じているということになる。

(※もし衆生、生死を出でず、仏乗を慕わずと知らば、魔は、この人において、なお親の想いを生ず。

ここ面白い言い方してはりますね~。生死の苦海から出ることもなく、仏を慕っていないと知れば、魔はこの人に対して親のような想いを生ずる、すなわち大事にするということですね。今で言えば御本尊を信じて頑張ってる人に対しては、魔は敵対するということです。信心さぼったりやってない人に対して、魔は親のようによしよしするってことですね。)


 釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものは、味方よりも強敵が人をよく大成させている。。眼前に見えたり。この鎌倉の御一門の御繁昌は、義盛と隠岐法皇ましまさずんば、いかでか日本の主となり給うべき。されば、この人々はこの御一門の御ためには第一の味方である。日蓮が仏にならん第一の味方は景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿がいなかったならば、どうして法華経の行者になれただろうかと悦んだものである。


 こうやって過ごしているうちに、庭には雪つもりて人もかよわず、堂にはあらき風より外はおとずるるものなし。眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱え、夜は月・星に向かって、諸宗の違目と法華経の深義を談ずるほどに、年も改まった。

(新1236頁14行目)

いずくも人の心のはかなさは、佐渡国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・性諭房・印性房・慈道房等の数百人、より合って僉議すと承る。「聞こうる阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪知識の日蓮房、この国にながされたり。なにとなくとも、この国へ流されたる人の始終いけらるることなし。たといいけらるるとも、かえることなし。また打ちころしたりとも、御とがめなし。塚原という所にただ一人あり。いかにごうなりとも、力つよくとも、人なき処なれば、集まっていころせかし」と云うものもありけり。また、「なにとなくとも頸を切らるべかりけるが、守殿の御台所の御懐妊なれば、しばらくきられず。終には一定ときく」。また云わく「六郎左衛門尉殿に申して、きらずんばはからうべし」と云う。多くの義の中に、これについて守護所に数百人集まりぬ。


 六郎左衛門尉の云わく「上より殺しもうすまじき副状下って、あなずるべき流人にはあらず。あやまちあるならば、重連が大いなる失なるべし。それよりは、ただ法門にてせめよかし」と云いければ、念仏者等、あるいは浄土の三部経、あるいは止観、あるいは真言等を、小法師等が頸にかけさせ、あるいはわきにはさませて、正月十六日にあつまる。佐渡国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より集まれる法師等なれば、塚原の堂の大庭、山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの、百姓の入道等、かずをしらず集まりたり。
 念仏者は口々に悪口をなし、真言師は面々に色を失い、天台宗ぞ勝るべきよしをののしる。在家の者どもは「聞こうる阿弥陀仏のかたきよ」とののしりさわぎひびくこと、震動・雷電のごとし。日蓮はしばらくさわがせて後、「各々しずまらせ給え。法門の御ためにこそ御渡りあるらめ。悪口等よしなし」と申せしかば、六郎左衛門を始めて諸人、「しかるべし」とて、悪口せし念仏者をばそくびをつきいだしぬ。
 さて、止観・真言・念仏の法門、一々にかれが申す様をでっしあげて、承伏せさせては、ちょうとはつめつめ、一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば、ただ思いやらせ給え、利剣をもってうりをきり、大風の草をなびかすがごとし。仏法のおろかなるのみならず、あるいは自語相違し、あるいは経文をわすれて論と云い、釈をわすれて論と云う。善導が柳より落ち、弘法大師の三鈷を投げたる、大日如来と現じたる等をば、あるいは妄語、あるいは物にくるえるところを一々にせめたるに、あるいは悪口し、あるいは口を閉じ、あるいは色を失い、あるいは「念仏ひが事なりけり」と云うものもあり。あるいは当座に袈裟・平念珠をすてて、念仏申すまじきよし、誓状を立つる者もあり。
 皆人立ち帰るほどに、六郎左衛門尉も立ち帰る。一家の者も返る。日蓮、不思議一つ云わんと思って、六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云わく「いつか鎌倉へのぼり給うべき」。かれ、答えて云わく「下人どもに農せさせて、七月の比」と云々。日蓮云わく「弓箭とる者は、おおやけの御大事にあいて、所領をも給わり候をこそ。田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに、急ぎうちのぼり高名して所知を給わらぬか。さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくりいくさにはずれたらんは、恥なるべし」と申せしかば、いかにや思いけめ、あわててものもいわず。念仏者・持斎・在家の者どもも、「なにということぞや」と怪しむ。
 さて皆帰りしかば、去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり。頸切らるるならば日蓮が不思議とどめんと思って勘えたり。この文の心は、日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬えば、宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。平左衛門、既に日本の柱をたおしぬ。只今、世乱れて、それともなくゆめのごとくに妄語出来して、この御一門どしうちして、後には他国よりせめらるべし。例せば、立正安国論に委しきがごとし。かように書き付けて、中務三郎左衛門尉が使いにとらせぬ。つきたる弟子等も、あらぎかなと思えども、力及ばざりげにてあるほどに、二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのよう申すばかりなし。
 六郎左衛門尉、その夜にはやふねをもって一門相具してわたる。日蓮にたなごころを合わせて、「たすけさせ給え。去ぬる正月十六日の御言、『いかにや』とこのほど疑い申しつるに、いくほどなく三十日が内にあい候いぬ。また蒙古国も一定渡り候いなん。念仏無間地獄も一定にてぞ候わんずらん。永く念仏申し候まじ」と申せしかば、「いかに云うとも、相模守殿等の用い給わざらんには、日本国の人用いるまじ。用いずば、国必ず亡ぶべし。日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦仏の御使いぞかし。わずかの天照太神・正八幡なんどと申すは、この国には重けれども、梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし。されども、この神人なんどをあやまちぬれば、ただの人を殺せるには七人半なんど申すぞかし。太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしはこれなり。これは、それにはにるべくもなし。教主釈尊の御使いなれば、天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ、手を合わせて、地に伏し給うべきことなり。法華経の行者をば、梵釈、左右に侍り、日月、前後を照らし給う。かかる日蓮を用いぬるとも、あしくうやまわば国亡ぶべし。いかにいわんや、数百人ににくませ、二度まで流しぬ。この国の亡びんこと疑いなかるべけれども、しばらく禁をなして『国をたすけ給え』と日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、ほうに過ぐれば罰あたりぬるなり。また、この度も用いずば、大蒙古国より打っ手を向けて日本国ほろぼさるべし。ただ平左衛門尉が好むわざわいなり。和殿原とても、この島とても、安穏なるまじきなり」と申せしかば、あさましげにて立ち帰りぬ。
 さて、在家の者ども申しけるは「この御房は神通の人にてましますか。あらおそろし、おそろし。今は念仏者をもやしない持斎をも供養すまじ」。念仏者、良観が弟子の持斎等が云わく「この御房は謀叛の内に入りたりけるか」。さて、しばらくありて世間しずまる。
 また念仏者集まりて僉議す。「こうてあらんには、我らかつえしぬべし。いかにもして、この法師を失わばや。既に国の者も大体つきぬ。いかんがせん」。念仏者の長者の唯阿弥陀仏、持斎の長者の性諭房、良観が弟子の道観等、鎌倉に走り登って武蔵守殿に申す。「この御房、島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず。僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば、あるいは火に入れ、あるいは河にながす。夜もひるも高き山に登って、日月に向かって大音声を放って上を呪詛し奉る。その音声、一国に聞こう」と申す。
 武蔵前司殿、これをきき、「上へ申すまでもあるまじ。まず国中のもの、日蓮房につくならば、あるいは国をおい、あるいはろうに入れよ」と私の下知を下す。また下文下る。かくのごとく三度。その間のこと、申さざるに心をもって計りぬべし。あるいはその前をとおれりと云ってろうに入れ、あるいはその御房に物をまいらせけりと云って国をおい、あるいは妻子をとる。かくのごとくして、上へこの由を申されければ、案に相違して、去ぬる文永十一年二月十四日の御赦免の状、同三月八日に島につきぬ。

 念仏者等、僉議して云わく「これ程の阿弥陀仏の御敵、善導和尚・法然上人をのるほどの者が、たまたま御勘気を蒙ってこの島に放されたるを、御赦免あるとて、いけて帰さんは心うきことなり」と云って、ようようの支度ありしかども、いかなることにやありけん、思わざるに順風吹き来って島をばたちしかば、あわいあしければ百日・五十日にもわたらず順風には三日なるところを、須臾の間に渡りぬ。
 越後のこう、信濃善光寺の念仏者・持斎・真言等は、雲集して僉議す。「島の法師原は、今までいけてかえすは人かったいなり。我らはいかにも生身の阿弥陀仏の御前をばとおすまじ」と僉議せしかども、また越後のこうより兵者どもあまた日蓮にそいて善光寺をとおりしかば、力及ばず。三月十三日に島を立って、同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。
 同四月八日、平左衛門尉に見参しぬ。さきにはにるべくもなく、威儀を和らげてただしくする上、ある入道は念仏をとう、ある俗は真言をとう、ある人は禅をとう、平左衛門尉は爾前得道の有無をとう。一々に経文を引いて申しぬ。
 平左衛門尉は上の御使いのようにて、「大蒙古国は、いつか渡り候べき」と申す。日蓮答えて云わく「今年は一定なり。それにとっては、日蓮已前より勘え申すをば御用いなし。譬えば、病の起こりを知らざる人の病を治せば、いよいよ病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、いよいよこの国、軍にまくべし。あなかしこ、あなかしこ。真言師、総じて当世の法師等をもって御祈りあるべからず。各々は仏法をしらせ給いておわせばこそ申すともしらせ給わめ。

またいかなる不思議にやあるらん。他事にはことにして、日蓮が申すことは御用いなし。後に思い合わせさせ奉らんがために申す。隠岐法皇は天子なり。権大夫殿は民ぞかし。子の親をあだまんをば、天照太神うけ給いなんや。所従が主君を敵とせんをば、正八幡は御用いあるべしや。いかなりければ公家はまけ給いけるぞ。これはひとえに只事にはあらず。弘法大師の邪義、慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思って、叡山・東寺・園城寺の人々の鎌倉をあだみ給いしかば、『還って本人に著きなん』とて、その失還って公家はまけ給いぬ。武家はそのこと知らずして調伏も行わざればかちぬ。今また、かくのごとくなるべし。えぞは死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり。いかにとして頸をばえぞにとられぬるぞ。これをもって思うに、この御房たちだに御祈りあらば、入道殿、事にあい給いぬと覚え候。あなかしこ、あなかしこ。『さ、いわざりける』とおおせ候な」と、したたかに申し付け候いぬ。  さて、かえりききしかば、同四月十日より阿弥陀堂法印に仰せ付けられて、雨の御いのりあり。この法印は東寺第一の智人、おむろ等の御師弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり。それに随って十日よりの祈雨に、十一日に大雨下りて風ふかず、雨しずかにて一日一夜ふりしかば、守殿御感のあまりに、金三十両、むま、ようようの御ひきで物ありときこう。   

 鎌倉中の上下万人、手をたたき、口をすくめてわらうようは「日蓮、ひが法門申して、すでに頸をきられんとせしが、とこうしてゆりたらば、さてはなくして、念仏・禅をそしるのみならず、真言密教なんどをもそしるゆえに、かかる法のしるしめでたし」とののしりしかば、日蓮が弟子等、きょうさめて「これは御あら義」と申せしほどに、日蓮が申すようは「しばしまて。弘法大師の悪義まことにて、国の御いのりとなるべくば、隠岐法皇こそいくさにかち給わめ。おむろ最愛の児・せいたかも頸をきられざるらん。弘法の法華経華厳経におとれりとかける状は、十住心論と申す文にあり。寿量品の釈迦仏をば凡夫なりとしるされたる文は、秘蔵宝鑰に候。天台大師をぬす人とかける状は、二教論にあり。一乗法華経をとける仏をば真言師のはきものとりにも及ばずとかける状は、正覚房が舎利講の式にあり。かかる僻事を申す人の弟子・阿弥陀堂法印が日蓮にかつならば、竜王法華経のかたきなり。梵釈・四王にせめられなん。子細ぞあらんずらん」と申せば、弟子どものいわく「いかなる子細のあるべきぞ」とおこづきしほどに、日蓮云わく「善無畏も不空も、雨のいのりに雨はふりたりしかども、大風吹いてありけるとみゆ。弘法は三七日すぎて雨をふらしたり。これらは雨ふらさぬがごとし。三七二十一日にふらぬ雨やあるべき。たといふりたりとも、なんの不思議かあるべき。天台のごとく、千観なんどのごとく、一座なんどこそとうとけれ。これは一定、ようあるべし」といいもあわせず、大風吹き来る。

 大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を、あるいは天に吹きのぼせ、あるいは地に吹き入れ、そらには大いなる光り物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふきころし、牛馬おおくたおれぬ。悪風なれども、秋は時なればなおゆるすかたもあり。これは夏四月なり。その上、日本国にはふかず。ただ関東八箇国、八箇国にも武蔵・相模の両国、両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら、かまくらにも御所・若宮・建長寺極楽寺等につよくふけり。ただ事ともみえず。ひとえに、このいのりのゆえにやとおぼえて、わらい口すくめせし人々もきょうさめてありし上、我が弟子どもも「あら不思議や」と舌をふるう。

 本よりごせしことなれば、「三度国をいさめんに、もちいずば国をさるべし」と。されば、同五月十二日にかまくらをいでてこの山に入る。同十月に大蒙古国よせて、壱岐対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、大宰府もやぶられて、少弐入道・大友等、ききにげににげ、その外の兵者ども、そのことともなく大体打たれぬ。また今度よせくるならば、いかにもこの国よわよわと見ゆるなり。

 仁王経には「聖人去らん時は、七難必ず起こらん」等云々。最勝王経に云わく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に乃至他方の怨賊来って、国人喪乱に遭わん」等云々。仏説まことならば、この国に一定悪人のあるを国主たっとませ給いて、善人をあだませ給うにや。大集経に云わく「日月も明を現ぜず、四方皆亢旱す。かくのごとき不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊す」云々。仁王経に云わく「諸の悪比丘は、多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁、破国の因縁を説かん。その王別えずしてこの語を信聴せん。これを破仏法・破国の因縁となす」等云々。法華経に云わく「濁世の悪比丘」等云々。経文まことならば、この国に一定悪比丘のあるなり。夫れ、宝山には曲林をきる。大海には死骸をとどめず。仏法の大海、一乗の宝山には、五逆の瓦礫、四重の濁水をば入るれども、誹謗の死骸と一闡提の曲林をばおさめざるなり。されば、仏法を習わん人、後世をねがわん人は、法華誹謗をおそるべし。皆人おぼするようは「いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用いるべき」と。他人はさておきぬ、安房国の東西の人々は、このことを信ずべきことなり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房、清澄の西尭房・道義房、かたうみの実智房等は、とうとかりし僧ぞかし。これらの臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。これらはさておきぬ。円智房は、清澄の大堂にして三箇年が間、一字三礼法華経を我とかきたてまつりて、十巻をそらにおぼえ、五十年が間、一日一夜に二部ずつよまれしぞかし。かれをば皆人は「仏になるべし」と云々。日蓮こそ「念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底におつべし」と申したりしが、この人々の御臨終はよく候いけるか、いかに。日蓮なくば、この人々をば仏になりぬらんとこそおぼすべけれ。

 これをもってしろしめせ。弘法・慈覚等はあさましきことどもはあれども、弟子ども隠せしかば、公家にもしらせ給わず。末の代はいよいよあおぐなり。あらわす人なくば、未来永劫までもさてあるべし。拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ、その失はあらわれしか。

 夫れ、人身をうくることは五戒の力による。五戒を持てる者をば、二十五の善神これをまぼる上、同生同名と申して二つの天、生まれしよりこのかた左右のかたに守護するゆえに、失なくて鬼神あだむことなし。しかるに、この国の無量の諸人、なげきをなすのみならず、ゆき・つしまの両国の人、皆事にあいぬ。大宰府また申すばかりなし。この国はいかなるとがのあるやらん。しらまほしきことなり。一人二人こそ失もあるらめ、そこばくの人々いかん。これひとえに、法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師、善導・法然が末の弟子等、達磨等の人々の末の者ども、国中に充満せり。故に、梵釈・四天等の、法華経の座の誓状のごとく、「頭破作七分(頭破れて七分に作る)」の失にあてらるるなり。

 疑って云わく、「法華経の行者をあだむ者は『頭破作七分』ととかれて候に、日蓮房をそしれども頭もわれぬは、日蓮房は法華経の行者にはあらざるか」と申すは道理なりとおぼえ候は、いかん。

 答えて云わく、日蓮法華経の行者にてなしと申さば、法華経をなげすてよとかける法然等、無明の辺域としるせる弘法大師、理同事勝と宣べたる善無畏・慈覚等が、法華経の行者にてあるべきか。また「頭破作七分」と申すことは、いかなることぞ。刀をもってきるようにわるるとしれるか。経文には「阿梨樹の枝のごとくならん」とこそとかれたれ。人の頭に七滴あり。七鬼神ありて、一滴食らえば頭をいたむ。三滴を食らえば寿絶えんとす。七滴皆食らえば死するなり。今の世の人々は、皆、頭阿梨樹の枝のごとくにわれたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せば、てをおいたる人の、あるいは酒にえい、あるいはねいりぬれば、おぼえざるがごとし。

 また「頭破作七分」と申すは、あるいは「心破作七分」とも申して、頂の皮の底にある骨のひびたうるなり。死ぬる時はわるることもあり。今の世の人々は、去ぬる正嘉の大地震、文永の大彗星に、皆頭われて候なり。その頭のわれし時、ぜいぜいやみ、五臓の損ぜし時、あかき腹をやみしなり。これは、法華経の行者をそしりしゆえにあたりし罰とはしらずや。

 されば、鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ形よければ嫉む者多し。国を治むる者は他国の恐れあり。財有る者は命危うし。法華経を持つ者は必ず成仏し候故に、第六天の魔王と申す三界の主、この経を持つ人をばあながちに嫉み候なり。この魔王、疫病の神の、目にも見えずして人に付き候ように、古酒に人の酔い候ごとく、国主・父母・妻子に付いて法華経の行者を嫉むべしと見えて候。少しも違わざるは当時の世にて候。日蓮は南無妙法蓮華経と唱うる故に、二十余年所を追われ、二度まで御勘気を蒙り、最後にはこの山にこもる。

 この山の体たらくは、西は七面の山、東は天子のたけ、北は身延の山、南は鷹取の山。四つの山、高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし。中に四つの河あり。いわゆる富士河・早河・大白河・身延河なり。その中に一町ばかり間の候に庵室を結んで候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問う人希なれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問うことなし。命を期として法華経ばかりをたのみ奉り候に、御音信ありがたく候。しらず、釈迦仏の御使いか、過去の父母の御使いかと、申すばかりなく候。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経

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