御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 寿量品  第三「我実成仏已来、無量無辺」等の事 753頁 1049頁

第三 「我実成仏已来、無量無辺(我は実に成仏してより已来、無量無辺なり)」等の事
  御義口伝に云わく、「我」とは、釈尊の久遠実成道なりということを説かれたり。しかりといえども、当品の意は、「我」とは、法界の衆生なり。十界己々を指して「我」と云うなり。「実」とは、無作の三身の仏なりと定めたり。これを「実」と云うなり。「成」とは、能成・所成なり。「成」は開く義なり。法界は無作の三身の仏なりと開きたり。「仏」とは、これを覚知するを云うなり。「已」とは、過去なり。「来」とは、未来なり。「已来」の言の中に現在は有るなり。我実と成けたる仏にして、已も来も、無量なり無辺なり。百界千如・一念三千と説かれたり。「百」「千」の二字は、「百」は百界、「千」は千如なり。これ即ち事の一念三千なり。
  今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、寿量品の本主なり。総じては、迹化の菩薩、この品に手をつけ、いろうべきにあらざるものなり。彼は迹表本裏、これは本面迹裏なり。しかりといえども、しかも当品は末法の要法にあらざるか。その故は、この品は在世の脱益なり。題目の五字ばかり当今の下種なり。しかれば、在世は脱益、滅後は下種なり。よって、下種をもって末法の詮となす云々。

 

<感想>

新版御書から本文を載せていますが、御書全集のを見たら、ほんま読みにくそう。句読点があまりないので、日本人だとわかるけど、外国人だとどこで切るのかわからんのんちゃう?外国人あんまり読まんかな。しかも今更やね。

 

寿量品の文は勤行で唱えてるから、これもおなじみの経文だと思います。

永遠の生命が説かれている大事なところ。已とは過去、来とは未来をさします。已来の中に現在は含まれる。ゆえに大聖人の御立場からどう読むかというと、ここの「我」は釈迦ではなく、「我」とは、法界の衆生なり、凡夫の姿のままで無作三身の仏であると覚知し、それが無始無終、永遠に続いていく、と説かれているのです。

 

だから、この品は釈迦が説き、迹化の菩薩がかかわる脱益の教えではない。末法の大聖人を本仏とする下種仏法であると、これが末法の要の教えであると言われているのです。

 

がーじつじょーぶついーらいと勤行しながら、間違ったことを思ってないですか?

釈迦でもなく大聖人でもなく、自分が久遠から成仏してきた本仏なんだと自覚して読むといいですね。私たちはもともと仏なんです。地涌の菩薩です。鍵かけて閉じ込めてきたかもしれんけど、扉開いたら仏の顔の自分が出てくるって、南無妙法蓮華経っていうたら仏の自分が出てくるって、そういうイメージで勤行したらええかな~