御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

寂日房御書 全902頁 新1268頁

寂日房御書  

 弘安二年(1279年)9月16日、身延で著されました。寂日房を通して安房のある婦人に与えられたお手紙です。寂日房は日家(にっけ)とも日華(にっけ)のこととも言われています。本抄の別名を「自解仏乗書」といいます。

「勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり」と御自身が法華経を身で読まれた法華経の行者であり、その父母は釈迦・多宝の二仏等が変じたものかと述べています。

そして、「日蓮と名乗ることは自解仏乗とも云いつべし」として日蓮という御名には末法衆生を救う仏であるとの深い意義があることを示され、ゆえに、日蓮の弟子檀那となった人は「宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」と教え、また御本仏法は我が身の恥を隠す冥途の衣装なので、よくよく信じて信心を怠らずに南無妙法蓮華経と唱えるよう諭されています。(以上は、大聖人の「御書」を読む・から)

 

御書本文:

 これまで訪れてくださったこと、大変ありがたく思っています。

 そういえば、人身を受けることはことはまれなことである。すでにまれな人身を受けている。また、遇うのが難しいとされる仏法、これにもまた遇えている。同じ仏法の中でも法華経の題目に遇っている。そして、題目の行者となった。まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者である。
 日蓮は日本第一の法華経の行者である。すでに勧持品の二十行の偈の文は、日本国の中では日蓮一人が読めている。八十万億那由他の菩薩は、口には宣べたれども修行した人一人もいない。かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は、日本国の一切衆生の中には大果報の人である。父母となり、その子となるも、必ず宿習なり。もし日蓮法華経・釈迦如来の御使いならば、父母、どうしてそのわけがないだろうか、ないはずがない。例えば、妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼のようなものである。釈迦・多宝の二仏、日蓮が父母と変じたのであろうか。そうでなければ、八十万億の菩薩が生まれかわられたのであろうか。また、上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹だろうか。不思議に覚えております。

(以上、わかりやすく書き直しました)

(以下は未編集です)
 一切の物にわたりて名の大切なるなり。さてこそ天台大師、五重玄義の初めに名玄義と釈し給えり。日蓮となのること、自解仏乗とも云いつべし。かように申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところ、さもやあらん。経に云わく「日月の光明の、能く諸の幽冥を除くがごとく、この人は世間に行じて、能く衆生の闇を滅す」と。この文の心よくよく案じさせ給え。「斯人行世間(この人は世間に行じて)」の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明・煩悩の闇をてらすべしということなり。日蓮はこの上行菩薩の御使いとして、日本国の一切衆生法華経をうけたもてと勧めしはこれなり。この山にしてもおこたらず候なり。今の経文の次下に説いて云わく「我滅度して後において、応にこの経を受持すべし。この人は仏道において、決定して疑いあることなけん」云々。

かかる者の弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思って、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といわれぬること、はや不祥なり、まぬかれがたき身なり。彼のはんかい・ちょうりょう・まさかど・すみともといわれたる者は、名をおしむ故に、はじを思う故に、ついに臆したることはなし。同じはじなれども、今生のはじはもののかずならず、ただ後生のはじこそ大切なれ。獄卒・だつえば・懸衣翁が三途河のはたにていしょうをはがん時を思しめして、法華経の道場へまいり給うべし。法華経は後生のはじをかくす衣なり。経に云わく「裸なる者の衣を得たるがごとし」云々。この御本尊こそ冥途のいしょう(衣装)なれ。よくよく信じ給うべし。おとこのはだえをかくさざる女あるべしや。子のさむさをあわれまざるおやあるべしや。釈迦仏・法華経は、め(妻)とおや(親)とのごとくましまし候ぞ。
 日蓮をたすけ給うこと、今生の恥をかくし給う人なり。後生はまた、日蓮、御身のはじをかくし申すべし。昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみなり、よめのしゅうとめになること候ぞ。信心おこたらずして、南無妙法蓮華経と唱え給うべし。度々の御音信、申しつくしがたく候ぞ。このこと、寂日房くわしくかたり給え。
  九月十六日    日蓮 花押