第二 「六根清浄」の事
御義口伝に云わく、眼の功徳とは、法華不信の者は無間に堕在し、信ずる者は成仏なりと見るをもって眼の功徳とするなり。法華経を持ち奉るところ、眼の八百の功徳を得るなり。眼とは法華経なり。「此大乗経典、諸仏眼目(この大乗経典は、諸仏の眼目なり)」と。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云々。耳・鼻・舌・身・意、またまたかくのごときなり云々。
<講義のまとめ>
この身が宝器であるといいきれるのは、我が生命に仏界を顕現した人生において、初めていいうることであろう。この御文では六根のうちの眼根について特に述べられ、「耳・鼻・舌・身・意、またまたかくのごときなり云々」で他の五根をすべて摂せられている。すなわち六根すべて、清浄となり、完全なる幸福への功徳をそなえることができるのである。単に肉眼の功徳だけではなく、正しい人生観、社会観をもち、幸福への人生をあやまちなく進んでいくことが眼の功徳である。ほかの五根についても同じことがいえる。
<感想と体験>
生命の浄化ができるというのは、すごいことなんです。私は子供の時からそういうことに敏感(普段は鈍感)で、自分の性格の汚いところ、腹黒さとか、人をねたんだりとか、弱いものをいじめたりとか、まあ自分だけじゃなくて、ほかの人が生命的(六根的)に汚いっていうことで、色々悩むことがあり、そのせいで幸せではなかったと思ったりする。
中学1年のときかな、家まで勧誘に来たモルモン教会の人たち、結構男前の外人さん(笑)親も行っていいというので、うちで仕事をしていたおっちゃん(他人)についてきてもらって行きましたが、まったく神に何を願っても、祈っても、何も叶わん。時間の無駄。皆ほんまに信じてるんかと、祈祷するとき、薄目をあけて周りを見たり、あかんね、したらあかんことしてたかも、私ってほんまに正直なので、信じられへんことに時間を費やすことはやめました。
20歳のときに折伏されて、題目をあげたら、自分の中の仏界が眼を覚ました(笑)これやな!わがままで育った自分がやっと人間革命して、親孝行できるなと思った。人間革命の歌を歌いながらトイレを掃除したら、父がびっくりしてた。今までいくら言われてもトイレ掃除をしたことがなかった自分が、なんかわからんけど、自然に親を喜ばすことができて、これぞ人間革命やと、嬉しかった。(境涯まだまだ低し!)
あのとき、自覚してなかったけど、仏界が発動しとったんやなと思いますね~。