第三 「又如浄明鏡(また浄明なる鏡のごとし)」の事
御義口伝に云わく、法華経に鏡の譬えを説くこと、この明文なり。
六根清浄の人は「瑠璃」「明鏡」のごとく三千世界を見るという経文なり(三千世界を明らかに己心に映して見ることが出来るという経文である。)。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、明鏡に万像を浮かべるように、(一切の事象を明らかに)知見していくのである。この明鏡とは、法華経であり、別しては宝塔品(すなわち御本尊)である。または(御本尊を信ずる)我が一心の明鏡である。
所詮、瑠璃と明鏡との二つの譬えを説かれている。身根清浄が説かれたその下に、その譬えがある。
色心不二なれば、いずれも(法華経を持つ人の生命の)清浄の徳分である。「浄」とは、不浄に対して浄というのである。「明」とは、無明に対して明と説くのである。「鏡」とは、(法華経を持人の信心の)一心である。「浄」は仮諦、「明」は空諦、「鏡」は中道である。
「悉見諸色像(ことごとく諸の色像を見る)」の「悉(ことごとく)」は、十界である。所詮、「浄明鏡」とは、色心の二法、(すなわち日蓮大聖人の生命であり)妙法蓮華経の体である(御本尊である)なり。(信心に約すると)「浄明鏡」とは、信心である。
また三千大千世界を知見するとは、※三世間のことなり。
<講義より>
汝自信を知ろうとすればあたかも自分の顔を鏡でみるように、自分の生命を見るための明鏡が必要である。
自分自身を知るための方法がわからないところに、現代の古今東西の哲学の根本的課題があると言えよう。仏法はその方法を明快に解いたと言えると思う。そのことを説かれた御義口伝である。
※三世間を現代的に訳するならば、五陰世間は生命に起こる諸々の現象であり、科学の分野で言えば、医学、生理学、心理学等々である。衆生世間とは社会的諸現象である。政治、経済、社会、法律等々の社会科学がこの分野に属すると言えよう。
また、国土世間とは自然界の諸現象で、天文、地理、気象等がそれである。
すなわち、三千大千世界を知見するとは、これらのあらゆる現象について、その本質ならびに姿を正しく見通していけるということである。
大宇宙の根本法則である南無妙法蓮華経と境地冥合するがゆえに、自然のうちに大宇宙のリズムに会った行動となり、一切無障碍の自在の境地となっていくのである。