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御義口伝 譬喩品 全795頁 新1107頁

   一、譬喩品
  御義口伝に云わく、この品の大白牛車とは、「無明癡惑、本よりこれ法性なり」の明闇一体の義なり。即ち三千具足の一乗をかかげたる車なれば、明闇一体にして三千具足の義を顕すなり。法界に遍満したれども一法なるを、一乗と云うなり。この一乗とは諸乗具足の一乗なり。諸法具足の一法なり。故に一つの白牛なり。また白牛は一つなりといえども、無量の白牛なり。一切衆生の体、大白牛車なるが故なり。しかれば、妙法の大白牛車に妙法の十界三千の衆生乗じたり。
  蓮華の大白牛車なれば、十界三千の衆生も蓮華にして清浄なり。南無妙法蓮華経の法体、かくのごとし。

 

<通解>

方便品第二の開三顕一の法説を聞いて、そこではまず、上根の舎利弗一人が領解し、未来の成仏の記別を受ける。そこで舎利弗は他の声聞がまだ領解しないので、釈尊に向かって詳説を請い、釈尊は三車火宅の譬喩を説く。この三車火宅の譬えは三車三乗の権を開し、大白牛車の一車一乗の実をあらわすのである。御義口伝には次のように仰せである。この品に説かれている三車火宅の譬えの中の大白牛車は「無明癡惑は本より是れ法性なり」という明闇(みょうあん)一体、無明即法性の義をあらわしている。すなわちこの大白牛車は南無妙法蓮華経という三千具足の一乗をかかげた車であるから、仏界の明と九界の闇とは相即一体であり、一念に三千を具足することを表すのである。

一乗というのは、法界すなわち全宇宙に遍満しているけれども、その体はただ一法であるのを一乗というのである。この一乗とは、諸乗すなわち、あらゆる幸福への方途をそなえた上の根本的幸福実現法であり、一切の万法を具足した根本の一法である。ゆえに一頭の白牛なのである。

だが、また、白牛は一なりといっても、無量の白牛に通ずる。なぜなら一切衆生の生命それ自体が、大白牛車だからである。

したがって、この大白牛車の譬喩は、南無妙法蓮華経の法体をあらわさんとしたものであり、妙法の大白牛車すなわち御本尊に、妙法を信ずる十界三千の一切衆生が乗って、人生を悠々と遊楽する姿を示したのである。

また、妙法蓮華の大白牛車であるから、そこに乗った十界三千の衆生も蓮華であって、世間の汚泥に染まることなく、清浄である。南無妙法蓮華経の法体は、以上のごとくである。

 

<講義まとめ>

大白牛車とは、事の一念三千の当体である御本尊であり、この御本尊を受持した一切衆生の生命のことである。三車火宅の譬えにおいて、父が羊車、鹿車、牛車の三車をしりぞけ、大白牛車を子等のために与えたとは、三乗を排して一仏乗を教えたことをいうのである。

 この一仏乗とは、

第一に、一念三千の当体であり、

第二に、法界すなわち大宇宙に遍満する根本の法であり、

第三に、一切万法を具足した根源の法であり、

第四に、あらゆる衆生の生命それ自体である。

これすなわち南無妙法蓮華経の法体である。

いま、御本尊を空仮中の三諦によって論ずると、大宇宙それ自体は空諦の本尊であり、わが己心の妙法は仮諦の本尊である。日蓮大聖人が顕された曼荼羅は、中道法相の本尊となるのである。

(御義口伝講義下巻 934頁に詳しく掲載されています)

 

(以下の講義を割愛します。)