御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御本尊相貌(そうみょう)抄 日女御前御返事 1243頁 56歳御作

日女御前に関しては諸説あるので省きます。

銭五貫文と米一駄、菓子(くだもの)等をご供養してもらったことに対するお返事です。

最初に日蓮大聖人が顕された御本尊について、この御本尊は法華経の湧出品から嘱累品までの八品に顕れていることと、仏滅後二千余年の間には誰人も顕さなかったことを明かされています。そして竜樹、天親、天台等も顕さなかった御本尊を日蓮大聖人が初めて、顕されたことを述べて御本尊の相貌を明かされています。さらに御本尊を供養する功徳がいかに大きいかを具体的な表現で示されています。そしてこの御本尊を自分の外にあると思ってはならないとして、「この御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ、只我ら衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経を唱うる胸中の肉団におわしますなり」と教えられています。

また、この御本尊も信心の二字に収まっていることを明かされ、南無妙法蓮華経とだけ唱えて成仏することが大切であると教え、信心こそ成仏の鍵であることを述べ、末法の修行においては御本尊を受持して南無妙法蓮華経と唱える実践の中に五種の修行(受持、読、誦、解脱、書写)が具足していると明かされ、大聖人の門下はそれ以外の修行を求めてはならないと教えられています

  ( 以上は[日蓮大聖人の「御書」を読む]から抜粋しました)

 

大事なことが書かれてあるので何度も読みたいと思います。

大事だと思う個所を書いておきます。

御書の本文:

爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是(これ)全(まった)く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、

通解:

ここに日蓮はどのような不思議なことであろうか、正法時代の竜樹・天神等や像法時代の天台、妙楽等でさえ顕さなかった大曼荼羅を、末法に入って二百余年を経たこの時に初めて法華弘通の旗印として顕したのである。この大曼荼羅は全く日蓮が勝手に作り出したものではない。法華経に出現した多宝塔中の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)並びに十方分身の諸仏の姿をあたかも版木で摺(す)るように摺りあらわした御本尊なのである。

 

御書本文:(御本尊の相貌のところです)

されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。

通解:

したがって、主題の(南無)妙法蓮華経の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に座を占めている。釈迦・多宝、更に本化の四菩薩は肩を並べ、普賢、文殊舎利弗、目連等が座を屈している。さらに日天、月天、第六天の魔王や、竜王、阿修羅が並び、そのほか不動明王愛染明王が南北の二方に陣を取り、悪逆の提婆達多や愚痴の竜女も一座をはり、三千世界の人の寿命を奪う悪鬼である鬼子母神十羅刹女等、そればかりでなく日本国の守護神である天照大神八幡大菩薩、天神七代、地神五代の神々等、本体の神が皆この御本尊の中に列座しているのである。それゆえそのほかの※用(ゆう)の神がどうしてもれるはずがあろうか。宝塔品には「諸の大衆を接して皆虚空にあり」とある。これらの仏・菩薩・体聖等、さらに法華経序品の説会に列なった二界八番の雑衆等、一人ももれずにこの御本尊の中に住し、妙法蓮華経の五字の光明に照らされて、本来ありのままの尊形(そんぎょう)となっている。これを本尊というのである。

 ※用の神とは、単に働き、作用を神としてあらわしたもの。体の神が実体のある神。

 

[講義より]

これは法華経の虚空会の儀式の姿そのままであり、日蓮大聖人の御生命そのものでもある。それは法華経自体、釈尊の生命を示したものであり、総じて全ての人の生命の実相でもある。しかしながら妙法を信じ行じていない人においては、中央の南無妙法蓮華経は冥伏しており、それにしたがってこの「妙法五字の光明に照らされて、本有の尊形となる」べき十界の生命ー特に仏菩薩などもーも現れない。

あたかも電灯はあるが消えて真っ暗の場合、室内にあるものはその姿をあらわさないで闇の中に溶け込んでいるようなものである。電灯に電流が通じて球が点ることにより室内は光に照らされ、個々の物がはっきりとその姿を現すのである。この電灯にあたるのが中央の首題であり、電灯に電流を通じるのが信心、口唱と言ってよいであろう。

それによって生命の内に具わっている仏界、菩薩界等の働きが顕現し躍動を始める。またもともと三千世界の人の寿命を奪う悪鬼である鬼子母神などの生命も、ちょうど法華経においては妙法受持者を守る諸天となっているように、私達の幸せを守る働きになるのである。これは人間みな持っている破壊的衝動や欲望が、その人の幸せを増進し、生命を護り、ひいては文化を育てていく働きになるのと同じである。その人の生命の中に妙法への信が確立されることによって、これらの全ての生命の働きが調和を保ちつつ、創造と発展への営みを織りなしていくのである、それが私たちの生命に約した場合の「本有の尊形となる」ということである。

 

御書本文:(4行ほど飛ばしてから・・)

 かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人・現在には幸をまねき後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて闇に燈の如く険難の処に強力を得たるが如く・彼こへまはり此へより・日女御前をかこみ・まほり給うべきなり、相構え相構えてとわりを我が家へよせたくもなき様に謗法の者をせかせ給うべし、悪知識を捨てて善友に親近せよとは是なり。

通解:

このように尊い御本尊を供養する女人は現世には幸せを招き寄せ、後生にはこの御本尊が左右前後に立ちそって、あたかも闇夜に燈火を得たように彼処へまわり、ここに寄り添って日女御前の周りを取り囲(かこ)み護(まも)るであろう。よくよく心を引き締めて遊女をわが家へ寄せ付けたくないように、謗法の者を防がなくてはならない。「悪知識を捨てて善友に親近しなさい」というのはこのことである。

[講義より]

現在の人生が幸せになれるだけでなく、死んでのちも守り助けてくださるということで、死後の生命のことが講義で書かれてありました。「死」というのは生命が自らの能動的な働きを失うこと。生命が生を維持していくためには外界からの物資や情報を取り入れ消化(同化)し、あるいは外界の状況に対応しなくてはならない。そうした生の働きが冥伏し、ただ「我」のみが存在している状態が「死」である。したがって死の状態においては苦難があってもそれを避けることはできず、打ち砕くこともできない。ただ苦を受けるしかないのである。そうした死の状態にある私たちの命に対して、御本尊の功徳は「左右前後に立ちそひ」あたかも闇の中でともしびを得たように、険しい山道で強力(ごうりき‥‥従者)が助けてくれるように守ってくださっているというのである。
 

御書本文:

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。

通解:

この御本尊は全くよそに求めてはならない。ただ、われら衆生法華経を信受し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」というのである。十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界に納(おさ)まっているということである。これによって御本尊を曼荼羅(まんだら)というのである。曼荼羅というのはインドの言葉であり、訳すれば輪円具足とも功徳聚ともいうのである。この御本尊もただ信心の二字に収まっているのである。「信を持って入ることを得たり」とあるのは、このことである。

 

最後のところです、御書本文:大事だと思うところを太字にしました。通解は省略します。:

日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし、如何にも後生をたしなみ給ふべし・たしなみ給ふべし、穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす、されば止観の四に云く「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と、弘決の四に云く「仏法は海の如し唯信のみ能く入るとは孔丘の言尚信を首と為す況や仏法の深理をや信無くして寧ろ入らんや、故に華厳に信を道の元・功徳の母と為す」等、又止の一に云く「何が円の法を聞き円の信を起し円の行を立て円の位に住せん」弘の一に云く「円信と言うは理に依つて信を起す信を行の本と為す」云云、外典に云く「漢王臣の説を信ぜしかば河上の波忽ちに冰り李広父の讎を思いしかば草中の石羽を飲む」と云えり、所詮・天台妙楽の釈分明に信を以て本とせり、彼の漢王も疑はずして大臣のことばを信ぜしかば立波こほり行くぞかし、石に矢のたつ是れ又父のかたきと思いし至信の故なり、何に況や仏法においてをや、法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり、此の事伝教大師入唐して道邃和尚に値い奉りて五種頓修の妙行と云う事を相伝し給ふなり、日蓮が弟子檀那の肝要是より外に求る事なかれ、神力品に云く、委くは又又申す可く候、穴賢穴賢。
 建治三年八月二十三日 日 蓮 花押
 日女御前御返事