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御義口伝 譬喩品 第二「即起合掌(即ち起って合掌す)」の事

第二 「即起合掌(即ち起って合掌す)」の事

【譬喩品の最初に「その時に舎利弗踊躍歓喜して、即ち起ちて合掌し、尊顔を1瞻仰(せんごう)して仏に言(もう)さく、今世尊に従いたてまつりて、此の法音を聞いて、心に踊躍を懐き、未曾有なるを得たり・・・」とあるところの御義口伝である。】

 

 文句の五に云わく「外儀を叙ぶれば、(外にあらわれた振る舞いについて述べるならば)『即起合掌』は身の領解と名づく。昔は(爾前経においては)権実を二(二つの別物)となす。掌の合わざるがごとし。今は(方便品において開三顕一が明かされ、三乗即一乗、)権即実と解る。二つの掌が合うようなものである。『向仏(仏に向かう)』とは、昔は、権(である三乗の修行)仏因ではなかったし、実である一乗も真の仏果ではなかったのである。今は、権即実と解って大円因(成仏の因)を成ず。その因は必ず(仏)果に趣く。故に『合掌向仏』と言う」。
  御義口伝に云わく、「合掌」とは、法華経の異名なり。「向仏」とは、法華経(南無妙法蓮華経に値い奉るを云うなり。「合掌」は色法なり、「向仏」は心法なり。色心の二法を妙法妙法蓮華経と開悟するを、(譬喩品で舎利弗が)「歓喜踊躍」したと説くのである。


  「合掌」において、また二つの意味がある。「合」とは妙なり、「掌」とは法なり。また云わく、「合」とは妙法蓮華経なり、「掌」とは二十八品なり。また云わく、「合」とは仏界なり、「掌」とは九界なり。九界は権、仏界は実なり。妙楽大師云わく「九界を権となし、仏界を実となす」。十界ことごとく「合掌」の二字に納まって、森羅三千の諸法は合掌にあらざることなきなり。


  総じて、三種の法華の合掌これ有り。今の妙法蓮華経は、三種の法華未分なり。しかりといえども、まず顕説法華を正意となすなり。これによって伝教大師は「『於一仏乗(一仏乗において)』とは、根本法華の教えなり○妙法の外、さらに一句の余経すら無し」と。「向仏」とは、一々文々は皆金色の仏体なりと向かい奉ることなり。「合掌」の二字に法界を尽くしたるなり。地獄・餓鬼の己々の当体、その外、三千の諸法、そのまま「合掌向仏」なり。


  しかるあいだ(それゆえ)、法界ことごとく「舎利弗」なり。「舎利弗」とは法華経なり。「舎」とは空諦、「利」とは仮諦、「弗」とは中道なり。円融三諦の妙法をあらわしている。

舎利弗」とは梵語、ここには「身子」と云う。「身子」とは、十界の色心(生命)なり。「身」とは十界の色法、「子」とは十界の心法なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、ことごとく「舎利弗」である。舎利弗は即ち釈迦如来、釈迦如来は即ち法華経(南無妙法蓮華経法華経は即ち我らが色心の二法なり。よって、身子はこの品の時、「聞此法音(この法音を聞く)」と領解せり。(開三顕一の法を聞いて悟ったというのである。)

「聞」とは名字即、「法音」とは諸法の音なり。諸法の音とは妙法の意味である。ここをもって文句に釈する時、「長風息(や)むことなし」と。「長風」とは、法界の音声なり。この音声を信解品に「以仏道声 令一切聞(仏道の声をもって、一切をして聞かしめん)」と云えり。「一切」は、法界の衆生のことなり。この音声とは、南無妙法蓮華経なり。

<講義のまとめ>

舎利弗法華経の説法を聞いて、事の一念三千の南無妙法蓮華経を悟って成仏するところである。妙法に合掌することが境地冥合であり、真の合掌になるのである。御本尊に向かって唱題するとき、空仮中の三諦、法報応の三身を覚知することになるのである。